11月3日 考えごと遊び

本を読むのは好きで、たくさん読みたいと思うけど……
毎日沢山の本が出版されているのに、1冊でも多く本を読もうと思うのは、虚しい。
映画だって1本観るのに2時間かかるが、世界では2時間にひとつくらいは映像作品は生まれ続けているような気がする。
観た数読んだ数がものを言うわけではないけど、毎日ひとつでも多くのことを知りたいと全力疾走するのにどれほどの意味があるのか、不死身になってすら追いつけないようなものを追うのは……。
沢山の作品が世の中にはあって、何かを鑑賞し続けることは簡単だ。
鑑賞して、その体験に何を求めているのかを
改めて
自省する。
鑑賞すること自体が
意味になる
今でない。

自分の感情が自分にとってどれほど価値があるのか。
楽しいや悲しいと感じた時、それで、それが何だ? 
今楽しかったことが役に立つのだろうか。
悲しくて泣いていた時間は、他のことをしていた方が意義深くなかったか。
そう考えていると、自分が楽しいから気分が良いからという理由で何かをするのに意味が見出せなくなる。
楽しいから何かをするって、どれほどのことか。

私も含めひとは感情のためにお金や時間を使う場合がとても多く、その下敷きで多くが成り立つから、いつもそんな風に思っているわけでないけど、今は、そう思うことを試している。
色んな仮定の上で世界をみるのは楽しい。
この楽しいという気持ちを有意義にするにはどう生きるか……。

そういえばアスリートや棋士の方が、プロとして成り立つ所以はそれを見たいと思って観る人がいるからと聞いて、改めて考えれば、確かにと思った。
どれだけの腕前を持っていても、それを見たい人がいなければ職業にはならない。
競技をする人たち、あとは芸術関係の多くのプロがプロとしてお金を稼いでいるのは、自分が何かを楽しんでいるのを、楽しんでいるところやその成果を見たい人がお金を払って見るからだ。
もちろんそのプロの楽しい、には一口に表せない苦しみや努力や勉強が含まれるだろうけれど……。

たくさんって?
突然変な言葉に聞こえる、よく使うタクサン。
こういう、根本的な仮定を差し替え視点を変える考えごと遊びをしていると、今まで気にしなかった言葉や景色がとても奇妙に思えてくる。
たくさん、もさっとしてるのに少しシャキッとして、たくさんの物があるのを表すはずなのにとてもひとかたまりの印象を持つ、変な言葉だ。
たくさんあるものは遠くから見るとただのひとかたまりに見える、そのようすをよく表していると思う、たくさんは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?