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11/24 死骸派

やたらやたらとご結婚のお話聞くと思ったら、いい夫婦の日だったね。
って、昨年も同じこと思ったな。
毎年11/22とその後数日には、たくさん素敵なお知らせ見かけることになるのだろうな。

Twitterにこぼすこともできない ほど 悲しいことを知った。
とても好きだったイラストレーターの笹井一個さんが1年以上も前にご病気で亡くなられていた。まだお若いのに。
高校生の頃から好きな……わたしは講談社ノベルスをその頃から贔屓にしているから、装丁イラストで お見かけして。
同人誌を購入したり。
知るのが大分後になったけど……本当にショックだ。本当に……。
笹井一個さんを好きだった高校の友人は知っているだろうか……フジファブリック志村さんが亡くなった時も彼女と連絡をとったな。
その時彼女はお別れの会に……行ったのだったかな。
その際と同じように、この人の新しい作品がもう楽しめないなんてあまりに実感が無い。
語弊があるけれど、本当の喪失感は悲しみを伴わないと思わせるほど。
悲しみすら、感情も何もそこにはなくなる。
何もなくなったことだけはわかる。

高校からの友人は、これも随分前だけれど、北村道子さんを教えてくれた人でもある。
服飾の北村道子さん……友人は映画をたくさん観ていたから。
わたしも北村さんの服好きだけれどご著書は持っていなくて。
『衣装術2』と、これを機に『衣装術』の新訂版も併せて購入した。
昨日開封した。まだ読んでいない。

他に友達がいないとは言わないけれど、わたしが「友人」を考えるとき真っ先に浮かぶ彼女。
結婚や出産、それ以外でもみんなそれぞれ大人になっていく中彼女はずっと変わらない。
わたしも変わらない。
彼女に影響を受けてきた実感はあまり無いのだけれど、こうして思い返せばたくさんの情報や思いを共有してきたな。
もしもわたしが死んだら……なんていたずらに考え遊ぶとき、彼女は少なくとも悲しみ悼んでくれるかななんて。
ひとりでもそういう友人を生涯で作ることができたのはよかった。
これから素晴らしい友人はまだできるかもしれないけれど、一緒に過ごしてきた時間というものは重ねる速度が同じだものね。
友人は魚座でAB型。

ああ友人をふと思い出してしまうのにもうひとつ理由があった。
昨日オノ・ナツメさんの代表作と言われる少し古い漫画を読んで、その主人公の境遇が彼女に何だか近しいのであった。
もともと趣味ベクトルがあの界隈なのでオノさんの漫画も読んでいそうなものだけど、友人が読んだならどう思ったろうな……と頭の隅で考えた。

友人のことを書いてしまった。
大げさに表せばわたしの唯一の友人。
というくらい、友人らしい友人……ひょっとしたら親友なのかも、
とても他者へ向けて親友とか呼ぶような人でないけれど、わたしたちは。

はじめの笹井一個さんご逝去の話に戻るけれど、こうして失われたものを知るたび自らの失ってはいけないもの、彼らのかわりにいだき続ければならないものを知るようだ。
他者の死をもって何かを学んだり、知ったり、何より死に対して生者として勝手に意味づけることは本意ではないけれど。
死も生もかわらぬ重さで享受する、なのに死を迎えた存在を違う性質と見てしまうのは……自分が生者であること、生者が死者に変化したことは紛れもないとしても、不自然で意志にそぐわない。
そもそも、死者って言葉が不自然だ。
死者も死人も、死体も。
死んで無くなったものを、物とか人とか体とか。
死体に対して、死骸という言葉は好きだ、むくろ、骸は中身がなくなって容器だけになったようすが感じられる。
そこには殻しかないのだって感じられる。

今夜もここでお喋りするのは自然でこころよい。
いつまでも話していられそうだ。
友人、友人と話して
いるみたいだ。
本当にこんな風に栓も身も蓋もない、何だかちょっと深度だけはわけもなくありそうな話をずっと互いにできる生きた人間の相手がいたのなら……
どうだろう? 毎日気分がいいのかな?

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