見出し画像

努力の仕方

どんなに好きなこと 楽しいこと 何をしていても、いつでも退屈しのぎだと思う。
人間であることから逃れられず、死が等しいのであれば、どんな'人間の限界'みたいな体験や結果だって、ただの'人間'だ。
人間の外へ行けたとしたって、退屈でないとは限らないけれど。
死も正義でないけれど、生も正義でない。
きちんと生きないことが責められるのであればきちんと死ぬことも肯定される。
そしてこのきちんと死ぬということは、生を全うするということではない。
生を全うすることとは別に、死を全うするということ。
死に対して生は優位でない。

ずっとそう感じていて、感動も勉強も努力もふと自分の中で意味を持たなくなってしまう。
それでも生きているというのなら、きちんとやりたい。
それが自分の意図かどうかはさておき'している'ことはすべて半端でなく達成していきたい。
そうしないのなら生きるのをやめろと思う。
生の対象としての死を言い訳のようにして今'している'生にも向き合えないなら。

この人間から逃れられないという終末の感覚を'良い'……『正しい』方向へ変換するとしたなら、例えば、その'人間'を宇宙みたいに限りなく無限に近いものとすることだ。
ここにこうしてやってきて人間から逃れられないとしても、その人間自体が明確に有限でない、どこまでも可変していく可能性を持ったものと真に信じこめば、'限界'を本気で目指して試したくもなってくる気がする。
例えばのもうひとつは、意識としての人間をやめてプレイヤーとしていくことだ。
人間の自分が意思を持ってこの身体で色々を達成していくというのとは微妙に違って、この身体を乗り物としている'自分'がその意思で、この乗り物をつかってこの現世をプレイする。
視点は身体ではなくて意思にある。
ゲームクリアなんて明確に気持ちのいい線引きはなかなかできなくても、ミッションをひとつひとつ達成して、例えば、機体をグレードアップしたりオプションを追加してその先の分岐の可能性を広げていく。
達成項目を他個体より増やして、優れた機体を育てていくことは楽しいプレイだ。
おもしろいプレイだ。
現世ではその様子をある視点から見れば、高みを目指す努力を重ねる様子に見えるだろう。

後者の考え方は、7ZEL、TOKIYAさんがインタビューで仰っていた考え方を踏襲して再解釈した。
大げさに言うなら後者は、退屈な人間をやめてしまうって感じだ。
前者は、あくまで人間として努めていく考え方だ。
今は、というのか性質か誰だってそうなのか、後者の考え方をする方が簡単で、すっかりマシンのようだ。
人間としての情を持って努めるより、部屋でひとりゲームをするように画面だけを見て進めていく方がよほど集中ができる。
他人に迷惑をかけたり、優しくいられないのは嫌だけど、所謂努力をする時に感情や情が伴わないのは新鮮だ。
並大抵でない努力は感情や情が伴わなくてもできることがある、場合によってはその方が邁進できる……。
ここふたつの考え方をみるとき、前者の方が健全にみえるけれど、トップアスリートのことなんかを思い出す時、時に案外後者に近い考え方をして向上していっているようにも見える。
マシンのように見えることがあるから。
前者と後者の間くらいの考え方でやっているのかも。

……だったら何だって話だけれど。
どうせ人間として死ぬだけなんだからね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?