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お話7 声が出なくなること

声が出なくなってきている。歌声のことだ。

私はこれまで、15歳の頃から、35歳の今まで、たくさんの弾き語りをしてきた。
歌は常に私のそばにあって、私を守り導いてくれた。
一人ぼっち孤独の中にいた私を、人前に立たせてくれたのも歌だった。

初めて人前で歌ったのは、22歳のとき。
その頃よく通っていたギャラリーで、個展をしていた方に、オープニングパーティーで一緒に歌わないかと誘われたのだった。
当時のあだ名は“ぐりちゃん”
ぐりちゃんの私は、必死になって、家で何度も練習して、めでたくお客さんの前で歌を披露できたのだった。
歌は、心がどうにも不自由だった、私の大切なコミュニケーション・ツールだった。

その後からは、ギターのない私はないくらいに、いつも弾き語りをしていた。
人と遊ぶときは、ギターを背負って
家で一人のときは、ギターを弾いて
ときにはライブで人前に出て

でも、一人で歌うか、お友達一人の前で、そっと歌うのが好きだった。
ときどき大切な人に、電話越しにも歌った。

今も、現在進行形で歌は歌っているのだけれど
声が出なくなってきている。
歌声の変化は感じていたけれど、声が出なくなるってこういうことなんだな、と今日歌っていて感じた。
なのでこの記事を書いている。

そのうち、一人か、お友達一人の前で限定の歌になりそうだ。(大きな声で歌う必要がないから)
インターネットを通して聴いてくれる方に、届けるのが好きだったので、さみしいけれど。
声が出なくなったら、できなくなります。

声が出なくなるというのは、自然なことだと思う。
私は、五年ほど前、統合失調症の急性症状で入院する3日前に、声が出なくなった経験がある。
声を出そうと思っても、出せないのだった。
心を守るために、“声”という塊が動かなくなった、そういう感じである。
失語症というのかな。あまりのショックでそうなってしまったのだと思う。
しばらく家族とは筆談をしていた。

その時感じたのは、「本当の私は声が出せないんだ」っていうことだった。
声の出ない自分が、とても自然だった。
声を出すということは、痛むことに似ていた。

私はなぜだか、意図せずに手話のドラマにハマってしまう。
今回は「silent」というドラマに、どハマリした。
耳の聴こえない想くんの世界が、馴染み深く感じた。
声が出ないことは、慈しみに似ている気がした。

もしも歌えなくなったら、表現方法が一つ減ることになるけれど
それは私のもとを歌が去っていったということなのかもしれない。
それはさみしいことじゃない。

ずっと一緒にいたのだから。

そしてきっと、私は死ぬまで、一人で歌い続けるだろう。

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