レイヤー/アングル/テリトリー

ここ数年、奥さんと色々な話をする時に「レイヤーが違う」という言い方で、ディスコミュニケーションにまつわる話をしてきた。
仕事上でもそうだし、プライベートでもそうだ。
この場合のレイヤーは上下関係を強調したいわけではなく「フロアが違う人間では見えている景色が異なる」ということを言いたいための言葉として使ってきたつもりだ。

しかし最近、どうも自分が使ってきたこの言葉と意味は、少し的外れなのではないか、という気がしてきた。
見ているものは違わないのに食い違う、すれ違う場合の構造について言及しきれていない言葉だということに、なかなか気づかなかったのだ。レイヤー構造を持ち出すならば、そこで互いが見ている景色は違う。
見ているものが同じなのに、違う話になったり話がそもそもかみ合わない場合もある。その時は『縦に連なる構造体を見ている場合は貫通していて見えているものは同じはずだが、その深度の違いによって見え方が異なる』という形でこの考え方を保持してきたのだけど、些か違和感を拭えなかった。

ということで最近はディスコミュニケーション発生時に、レイヤー構造以外に『アングルが違う』という言い方を用いる、あるいはその可能性を起点に物事を考えるようにしてみている。立ち位置の違いで見え方が異なる。火災現場で警察官と消防官が見るべきものは異なる。
これらはごくごく当たり前の話なのだが、近しい関係の者になればなるほど、なまじ共有している情報や前提が同じのように思えるので、同じアングルで物を見ていると履き違えがちだ。
ところが実際には、ものの見方というのは意外なほど異なるし、それらは個人の体験に基づく(ある種の)偏見やバイアスが、本人でも意識しないほどのレベルで前提条件となっていて、違和に気づけても原因までたどり着けないケースが物凄く多いかもしれない、ということに最近気がついた。

ということで最近は、レイヤー構造とアングル。この2つを主な「ものの見方をする時のものさし」にしている。
「領域」「構造」「階層」「角度(視点)」がものの見方を決めがちな要素のような気がしている。
僕は「領域」はマナーとして重視するけれど、そこを厳しくすると断絶しか生まないのであまり好きではない。ただし世の中には断絶を積極的に行う人たちもおり、それらは分断を加速させる行為だと思うけれど、彼ら自身が主体性を持って取り組む以上、こちらから成す術はない、とも思っている。
趣味領域の二次創作においてはこの分断は「好み」として許容されがちで、結果「好みでないもの」と激しく貶める発言をする方もいる。
僕としては「あなたが散々貶すものを僕は好きだから、少し傷つくな」と思う。しかし彼らにとってはそれは「好きなものを好きというための行為」なので止めることはできない。
かくして分断は進み続け、ひとつの島だったものも、いつしか緩やかに列島となっていくのだろう。その島々が双方向になるかは、そこにいる人たち次第なのだろう。

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