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【遺書日報_セカンドシーズン】2021年3月1日

こんばんは。今日も書きます。


無事、2月も生き抜きました。お疲れ様でした。


日々を生きているとやる気が出なくなる時もありますよね。

2月最終週はあまりやる気が出なくて、とにかくずるずると生きていました。


やる気が出ないのはあまり喜ばしいことではないでのすが、本能に従って(?)だらだらできたのはとても良かったです。

その中でも一番嬉しかったのが、ひたすらドラマやアニメを観れたことです。


高校卒業前後くらいから、映像作品を観るのがなかなか億劫になってしまいました。自分は元々テレビっ子だったので、ドラマやアニメを観る体力が年々なくなっていくことに、一抹の侘しさを抱えていました。


しかし、2021年現在、生活の一部をAmazonに支配されるようになってから(?)、思い切ってファイアースティックを購入したのですが、これがめちゃくちゃ良かった。アマプラで「前々からちょっと気になってた作品」を片っ端から観ていくことができるので、とにかく爽快でした。

また、レンタル代金や期間、録画容量などを気にしなくて良いので、初見である程度内容をしっかり把握しなくてはという気負いもなくなりました


この「内容をしっかり把握しなくてはという気負い」は、気づかないうちに私を長年縛っていたみたいでした。レンタル代金云々以外にも、「内容を理解しなければだめなのだ」というストイックさが、おそらく大学生活で身についてしまったのだと思います。

大学では、読みなれない論文や専門書に取り組まないといけません。そこで危惧していたのが「誤読」です。著者の意見を取り違えてはいけないと躍起になっていたのですが、いつの間にか論文や専門書以外の領域でも自分を縛っていたようでした。


また、他者と交流する上でも、何かカルチャーなどについて語るとき、正答誤答があるような、妙な緊迫感が発生しているような、どこかしらに居心地の悪さを感じていました。

先日の日報で「花束みたいな恋をした」について、「ありふれたラブストーリー」としての「花束みたいな恋をした」が私の中では生まれなかったと書きましたが、これもやはりカルチャーについての感想や主張を共有することへの怖さがまとわりついていた結果だと思います。



「こいつはいかに作品をわかっているか」という値踏みのしあいが怖いのだと思います。大学時代の私は、絹ちゃんとも麦くんとも仲良くできない……。悲しい。


昔は他人に対して無意識のうちにこの値踏みをやっていたと思うのですが、いざ「あ、よくよく考えるとこれは値踏みだな」と分かってしまうと、結構キツイというか、「自分が今、他人から値踏みされている」が分かってしまうのが居心地の悪さを形成しているのかなと、ふと思いました。

今ではもう、他人がどのようにカルチャーを楽しんでいても特に何も気にならないのですが、自分で自分に対して「誤読判定」を課すクセは抜けていなかったみたいです。


ここで、ファイアースティックアマプラ無双に戻りますが、「別に分からなくて良いや」くらいの感覚で、ドラマやアニメを流し見するようにしました。ちょっと気になってたアニメを1話から流しつつご飯を食べて、パソコン作業をして、ちょっと休んだら皿洗いをして……とだらだらやってたら、最新話までたどり着ていました。しかも、思いのほか内容も頭に入っているし、次の話が楽しみになるくらいしっかりハマっていました。


私は映像作品を生活の中で楽しめるようになりました。

本当に嬉しかったです。寛解を感じます。


別に、「第○○話のBパートの××が△▼するシーンは◇◆のオマージュで、系譜的には~~~」みたいなこと、誰かと話すわけでもあるまいし。話したかったらTwitterでつぶやけば良いし。深堀りしたい時もあれば、浅瀬でちゃぷちゃぷやりたい時もあるってだけのことだと思います。

私は浅瀬でちゃぷちゃぷやりたいので、浅瀬でちゃぷちゃぷやってることを馬鹿にされても(正面切って馬鹿にする人とかいるんですかね)、そうですかくらいの心持ちでやっていこうと思います。というか、ダイビングやりたいんだったら、浅瀬で遊んでるやつにかまってないで、さっさ沖行ってこいや。


これにて本日の日報は終わりです。


明日は掃除のモチベーションが下がった時の対策について書けたら書きたいのですが、無理そうだったら諦めます。

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