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こころに、翅-hane-を

さっきから、私は、水ばかり飲んでいる。
相手も、私と交代するように、コップに手を伸ばす。
沈黙の気まずさを埋め合わせるように。

そんな光景を、私は何度目の当たりにしてきただろう。

飲み会がずっと苦手だった。
大学のサークルでも、職場でも、飲み会の席はくじ引きで決められた。
同じ席に率先して話してくれる人がいると、すごく安心した。
一方、そういう人がいないとき、私は不安になる。
ぽつりぽつりとしか会話はつづかなくて、周りの席の楽しそうな談笑を、内心うらやましいなと思いながら、聞こえていないふりをする。

みんなが楽しめる飲み会を、楽しむことのできない私は、きっとどこかおかしいんだと思っていた。

そんな悩みを、ひとに打ち明けたことがある。

その相手は、フランス詩人ヴェルレーヌを研究している大学の先輩Yさんだった。
彼女とカフェでお茶を飲んだとき、小さな店内には、私たちしかいなかった。
もともと声が小さく、言葉の少ない私たち二人だけの空間は、時計の音さえも聞こえるような静けさだった。
けれど、なぜかその沈黙が心地よかった。

私は、その気持ちを素直に口にした。
「Yさんとだと、沈黙も心地よいです。」
先輩は、
「わたしも」
と言って、ふふっと笑う。そして、彼女はつづけた。
「でも、ももちゃんは、だれとでもそうでしょう。」
私は、そんなことはないです、と否定しながら、いつも飲み会で感じていた気持ちを打ち明けた。
疎外感、劣等感というほど重い気持ちではないけれど、なんとなく申し訳ないような、かなしいような、あの気持ちを。

先輩は、私の話を聞き終えると、
「ももちゃんのお話をきいていると、文月悠光さんのエッセイを思い出すな」と言った。

私は、そのときまで文月悠光さんという方を知らなかった。
先輩が、私たちと同じくらいの歳の詩人だと教えてくれた。
そして、先輩は、その場で検索して、文月悠光さんのエッセイの書影を見せてくれた。

私は、その日、先輩と別れた後、まっすぐ本屋へと向かった。
それまで現代詩のコーナーに足を止めたことはなかったけれど、そこに、先輩に紹介してもらった、文月悠光さんのエッセイ『洗礼ダイアリー』が置かれていた。

私は、帰り道の電車の中で、買ったばかりの『洗礼ダイアリー』を読み始めた。

文月悠光さんの文章は、繊細で、美しくて、心の襞(ひだ)に添うようで、とても私には書けないものだった。

でも、ある章を読んでいたとき、どうして先輩が私を彼女のようだと言ったのかわかった。

「そろそろ出ますか」
あ。咄嗟にコーヒーカップの底に目を落とす。飲み残しのコーヒーは茶色い輪を結び、とうに乾ききっている。私もそう思っていたところでした、という風を装い、慌てて「そうですね」と応じる。(中略)「出ますか」と切り出す直前の相手の気まずそうな表情が目に焼き付いていた。
-文月悠光『洗礼ダイアリー』ポプラ社、2016年、45頁

この部分を読んだとき、ああ、私みたいだと思った。

彼女のエッセイは、長年感じていた、心のヒリヒリそのものだった。

けれど、彼女のエッセイは、そんなヒリヒリした感情を切り取るだけではない。
彼女は、そうした名前のない感情に苦しむだけの「被害者」ではなく、感情から逃げるどころか、それを丁寧に掬いあげ、「洗礼」として受けとる。 

相手が何を思い、何を感じているか、本当のところは永遠にわからない。でも、自分がどう感じたか、それはよく知っている。喫茶店で相手に「出ますかと告げられたら、次は率直にあの言葉を返そう。
「ありがとう。とても楽しかったよ」
-同書、pp.51-52。

彼女のもとで、名前のない感情は、美しい翅(はね)を与えられ、はばたいていく。

現代では絶滅危惧種のように扱われてしまう「詩人」の彼女が、悩んでいることは、ごく普通の女の子と変わりない。
それに、彼女自身、「詩人の感性」なんてそんな特別なものある訳がないと言っている。

それでも、目を背けたくなるような感情に、正面から向き合う文月さんは、ちょっと普通ではない。
けれど、それを「詩人の感性」として片づけてしまうのは、きっと乱暴なこと。
感情から目をそらさずに、一生懸命向き合うことは、わたしにだってできることだ。文月さんが特別な能力をもっているから、そうしているわけではない。

この本を開くと、どんな感情とも、向き合う勇気が湧く。

もし、いま名前のつかない感情に悩んでいる方がいたら、そっとこの本を開いてみてほしい。

きっとあなたにも「洗礼」が降り注ぐと思う。