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ただいま

あれれ?、と自分でも思っています。


エピローグって言ったじゃない。
最後にしますって言ったじゃない、と。

何度かアカウントごと消そうとしたのですが、消そうとするたびに「まだ消したくない」という自分の声が聞こえました。




noteを離れて3ヶ月くらい経ちますが、その間もこっそりnoteは覗いていました。

コメントもせず、スキもつけずに、ただ好きな記事を読む私は、まるで透明人間になったように、自由で気まま。


コメントをすることも、スキをつけることも、好きだと思っていましたが、少し重荷にもなっていたようです。

noteに書かなくても、というより、書かないからこそ味わえる時間もあるような気がしました。note映えするような出来事を求めなくなるし、単純にnoteをする時間を他に充てられる。


なのに、なぜここに戻ってきたのかと言えば、書きたいから。

もっと正確に言えば、聞いてほしいから、です。


実は、この noteを前の記事で最後にしようと決めたとき、私は別のアカウントをつくってnoteを書きはじめようと思っていました。

しかし、アカウントはつくってみたものの、そこには書く気になりませんでした。

私は書きたいから書いているのだと思っていましたが、そうじゃなかった。

話を聞いてほしい人たちがいるから、書いていたのだと、このnoteを離れてみて気づきました。

「こんなことがあった」って 
君と話したかったんだ

星野源「喜劇」

という歌詞がありますが、まさにそんな気持ちで私はnoteを書いていたのだと思います。


私のする話なんて、ほとんどが、つまらない話、くだらない話。

オチもないし、毒にも薬にもならない。
(いや、たまに毒はあるかも)

それでも、うんうんと聞いてくれる人がいる。



前回のnoteを書いたとき、泣かせてしまった人までいたのに、こうして数ヶ月でのこのこ戻ってきてしまって、無駄な涙を流させてしまったなと反省しています。

でも、「無駄に泣かせてしまってごめんなさい」の代わりに、「ただいま」と言うことにします。

少し気恥ずかしいですが。



私は、ときどき、さようならを言いたくなります。

それは、さようならと言われるのが怖いからかもしれません。自分が言われるよりも先に自分から言ってしまいたくなります。自分にとってその人が大切になっていくほどに、幻滅されるのが怖くなります。

あるいは、別れを告げることで、別れが突然訪れるものであることを示したいのかもしれません。メメント・モリのように。

それとも、別れを切り出すことで、誰かに悲しんでもらったり、引き留めてもらうことをどこかで望んでいるのかもしれない。ひどく身勝手ですが。

前回の記事で、このnoteにさようならしたのは、そのいずれの理由でもないような気もするし、どれも当てはまるようにも感じます。

ただ、前回の記事で厳密にはさよならとは言えなくて、また会おうという言葉を選んだのは、どこかでつながっていたいきもちがあったからだと思います。


さようならは、私にとって、自分を透明人間のように軽やかにしてくれる言葉。

けれど、人間として生きるなら、きっと必要な重さもある。

ハウルの動く城のソフィーが、「心って重いの」と話していたように。

noteが少し重荷になっていたというのは正直な気持ちです。

でも、それはそこに心があるからこそなのかな、とも思います。他者にも、自分にも、心があるから。

そんな心のすべてと向き合うことはできないし、その必要もない。重さなんて、本当は感じなくてもいいのかもしれない。

ただ私は軽やかでいたいと願いながらも、重さからくるあたたかさも感じたいと思うのです。

なんだかうまくまとまりませんが。

また少しずつお話したいと思います。

最近、仕事が終わって家に帰ってくると、シャンプーを詰め替えるのですら面倒くさくて後回しにしてしまいます。

そんな状態なので、読み応えある記事なんて書けそうにないし、コメントの返信も遅くなりそうだし、なかなか記事も読めないかもしれない。

でも、聞いてほしいこと、これからもときどきここで話そうと思います。

またおしゃべりしていただけたら、うれしいです。


それでは、おやすみなさい。いい夜を。