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最期まで生きた、私の家族

実家で飼っていた柴犬クッキーが息を引き取った。

クッキーは、14年7ヶ月生きた。


クッキーは、私が中学3年生のとき、我が家にやってきた。

その頃、小学6年生だった妹が保健室登校になっていた。犬がほしいという妹の願いを、両親は断れなかった。

私は動物が苦手だったから、犬を飼うことに反対していた。

でも、ある日、部活終わりに帰宅してドアを開けると、玄関に小さな柴犬がいた。

私の反対を押し切って、私がいないときを狙って、両親と妹は犬を連れてきてしまったのだ。


私は、ピーピーと文句を言っていた。

「誰が世話をするの」「私は絶対世話しないから」と妹と母を睨んだ。

「ももちゃんも、抱っこしてごらんよ」と妹に言われても、
私は不貞腐れていた。

でも、私の反対を押し切ってしまった妹や両親に腹が立ったが、目の前にいるこの小さな生き物に罪があるわけではなかった。

仕方なく、私は小さな犬を抱っこした。

抱っこした瞬間、私の指をガチンと噛んでくる。
米粒みたいな小さな歯なのに、血が出るほど強く咬まれた。

私は、ナウシカのように「ほらね、怖くない」とそのまま手を差し出すことはできなかった。

けれど、不思議と、怖くも腹立たしくもなく、怯えて咬んでくる小さな生き物を愛おしいとさえ感じはじめていた。

玄関にはケーキ箱のような小さな段ボール箱が置かれていたのが目に入った。

「ケーキ?」と妹に訊くと、
「この箱に入ってきたんだよ」と妹はおかしそうに答える。

ケーキ箱のような箱には、空気穴なのか、ブツブツと小さな穴が開けてあった。

こんなケーキがおさまるような小さな箱に入って、家までやってきたのかと思うと、なんだかおかしいような、かわいいような、可哀想なような気がした。


その日、この犬に「クッキー」と名前をつけた。

名付け親は私らしい。
昨日、妹に、ももちゃんがクッキーの名前をつけたんだよと言われて、そういえばそうだったような気もする。

クッキーは、まんまるい顔で、淡い毛色で、私の好きなムーンライトクッキーみたいだった。
「クッキー」と呼ぶと、いつも小さな三角の耳をピクンとさせた。
私と妹は、「クッキー」と呼んだり、「くぅちゃん」と呼んだりした。


初めは、手のひらに載るくらいの大きさしかなかったクッキーは、玄関のサークルの中にいた。


画質の悪さに時代を感じる

サークルの網の隙間から、ちょこんと鼻を出したりしていた。

寝るときは、クルンと狐のようにまるまって寝ていた。

後脚をクロスして座って、人魚のようなポーズをしているときもあった。


クッキーは、日に日に大きくなった。

はじめは鼻先がシュッと細長い顔になっていくのかと思ったら、むくむくとほっぺが丸くなってきて、小さいときと変わらずまんまるな顔になった。

目もまんまるで、キュルンとしている。


イケメン


大きくなったクッキーは、外に連れ出せるようになった。

外に連れ出せるようになって、クッキーは昼間は外の犬小屋にいて、夜は玄関の中の籠で眠るようになった。


散歩して歩いていると、向こうから歩いてくる人がニコニコしてクッキーを見ていた。

クッキーは、はぁはぁと舌を出して歩いていると、ニコニコ笑っているように見える。


はじめは、肛門を隠さずに尻尾がクルンとしている柴犬のフォルムを変だと思っていたが、見慣れてくると、尻尾をフリフリしながら歩くクッキーの後ろ姿は愛くるしくてしかたがなかった。


春になると、クッキーはシロツメクサを食いちぎって遊んでいた。

夏には、だらんと足を伸ばして寝ていて、すごく無防備に見えた。
生きてる?と何度か不安になって確かめるたび、お腹がふかーふかーと上下していて安心した。

秋に落ち葉を追いかけるクッキーは、狩猟本能を発揮しているようで少し怖かった。

冬の雪の日も、クッキーは喜んで散歩に出かけた。
雪景色の中に、クッキーの小さな足跡が続いていく。クッキーは、ふわふわの雪に鼻を突っ込んでぺろぺろ食べていた。やめなよとリードを引っ張っても、「へっ」と得意げな顔をして雪を食べ続けた。


クッキーは、全然言うことを聞かなかった。

以前テレビで特集していたことがあったが、柴犬はとても自由気ままな性格らしい。

だから、クッキーがお利口じゃないわけではなくて、たぶん柴犬らしい柴犬だったのだと思う。


犬の飼育についての本には、犬に先を歩かせず、飼い主と並んで歩かせるようにしましょうと書いてあった。
どちらが主人かをきちんと犬にわからせることが大事、と書いてあった。

けれど、いつだってクッキーは私たちの前を歩いた。
いつもリードはピンと張っていた。

クッキーの横を歩こうと、歩を速めると、クッキーも張り合って走り出して徒競走のようになった。
はじめは、私を横目にトコトコ走るクッキーだったが、本気を出すとビョンビョンと両脚を揃えて走り出す。

本気で走る犬に、人間が勝てる訳がない。

クッキーは、「お手」も、「おすわり」も、「まて」も、「ふせ」もできない。私たちの躾がうまくなかったのかもしれない。

手をグーにしてクッキーの前に出すと一応「お手」のようなものをしているようにも思えるし、ただ猫パンチならぬ犬パンチをしているようにも見える。
かわいいので、私たちは手を広げておやつをあげてしまう。
手の中におやつがないときは、お手と言っても、スルーだ。

「おすわり」と言っているのに、ふせをする。
違うから、おやつをあげないでいると、高速でふせとおすわりを繰り返したりする。
こうかな、それとも、こうかな、と目で訴えてくるのがおかしくてかわいくて、結局おやつをあげてしまう。

見知らぬ人に吠えてくれるなら番犬になるが、私たちが帰ってきたときもクッキーは怒った顔で吠えた。

そうかと思うと、散歩中、普通の犬はギャンギャンと他の犬に向かって吠えるのに、クッキーはなぜかいつもどこ吹く風とばかりに涼しい顔をしていた。自分を犬だと思っていなかったのかもしれない。

クッキーは、何度か脱走したこともある。

逃げ出してしまったのは、逃げ出すきっかけを作ってしまった私たちに過失がある。
散歩中にリードを離してしまったり、昼間クッキーがいる庭の小屋の扉が開いていたり。

脱走するとクッキーはなかなか家に戻ってこなくて、我が家のことが嫌いなんじゃないかと疑ったこともある。戻ってきたくなかったのかもしれないし、戻り方がわからなかったのかもしれない。

一番強烈なのは、夏の雷雨の日に、外でキャンキャンと鳴くクッキーがかわいそうで玄関に入れてあげようとして、逃げ出してしまったとき。

たしか、高校の定期考査の直前で、私は家で勉強していた。

雷雨の中、家にいた私と妹と母は、二手に分かれてクッキーを捜索した。

私と妹は、ガラゴロと雷の落ちる中、クッキーを歩いて探し続けた。自分たちが雷に打たれる恐怖と、クッキーが雷に打たれたり、足元を滑らせてしまったりしたらどうしようという不安でいっぱいで、泣き叫びながらクッキーの行きそうなところを走り回って探した。
見つからなくて、妹と二人で泣きながら家に帰ると、母とクッキーがいた。

車で広い範囲を捜索していた母が、遊び疲れて川辺でのんびり歩いていたクッキーを捕獲してくれていた。
心配かけさせやがってコノヤローという気持ちもあったけれど、見つかってほっとした。

何度か脱走するたび、今度こそダメかもしれないと思った。

一番最近では、今年の9月に私が帰省したとき。
庭でリードが外れていて、クッキーがいなかった。
保健所に問い合わせると、家から3キロくらい先の場所で保護したと伝えられた。

その日の朝、散歩をしてリードを結んだ父を責める気にはならなかった。
私が家を出てから、毎朝散歩するのは父に、毎晩母が散歩をするようになっていた。

14歳になってもまだ脱走するのかとクッキーに呆れつつ、見つかったことに安心して、まだそんなにも元気なんだなと自分に都合よく解釈していた。

クッキーは歳をとってきて、寝ていることが多くなった。

でも、散歩に連れていくと、ピョンピョンと尻尾を振りながら歩く姿は、小さな頃と変わりない。
お盆に帰省したときに散歩したが、どこまでも歩こうとするところも、ピンとリードを張ったまま歩くところも、何も変わっていなかった。

9月に大学院の卒業式で帰省したときには、脱走して保護されていて、クッキーに会えなかったけれど、逃げ出すくらい元気なんだから、まだまだこれから先も元気なんだろうと思っていた。

11月に就職が内定したから、両親に報告がてら帰省したときも、クッキーはいつもと変わらないように見えた。また会えると思っていたから、あまりクッキーと遊んであげることなく帰宅してしまった。


12月の初め、クッキーの寝る位置がちがうと母から連絡があった。
いつもは玄関のドアのそばで寝ていたクッキーは、部屋の近くで寝ていた。
「寒いのかな?」と私は母にメッセージを送ったけれど、あまり重く考えていなかった。
たぶん、その頃にはクッキーの体調がかなり悪化していた。

母から、クッキーがごはんを食べようとしない、水も飲まないと連絡があったのは先週のことだった。
昨年までは、毎晩おかわりをしていたのに。

私は、老犬に与える餌を検索して母に送った。
少し食べたよと、連絡が来て、私はほっとしていた。

クッキーは食欲が減っただけではなく、夜鳴きも繰り返すようになったらしい。
先週の休みの日、彼氏と会って、夜に家に帰ってきた妹は鳴いているクッキーを何度か抱っこしてあげたという。

食べなくなってしまったクッキーを妹が動物病院に連れて行ってくれた。
点滴をしてもらい、ずっとあたたかい場所にいさせてあげてくださいと言われたという。クッキーは寒さに強いと思って疑わなかった。もしかしたら、ずっと寒いのを我慢していたのかもしれない。

私は、年末にあわせて帰省する予定でいた。

夫が正月休みに入るより少し早く、26日の私の母の誕生日に帰省しようと思っていた。

クッキーと会えるのは、今回の帰省が最後になるかもしれない、と覚悟していた。

24日。クリスマスイブ。
母から、クッキーがもう水も飲まないし、食べものも口にしないから、もう長くないと連絡が来た。

私は、「もう長くない」という言葉を目にしてはじめて、クッキーがどれほど弱っているのかをようやく悟った。

その言葉を見たら、ぼろぼろと涙が溢れてきて、止まらなかった。

「やっぱり明日帰るよ」と母にメッセージ送った。
1日帰省を早めたところで、クッキーに会える保証はない。

なんて自分はばかなのだろうと思った。
あとで悔やんだって、遅いのだ。

だから、後悔しないように、毎日を大切に過ごさなければならないのだ。
いつだって会える訳じゃない。
今日が最後かもしれない、毎日そう思いながら過ごすべきなのに。

震災のときに、おじいちゃんが亡くなったとき、私はそう誓ったはずじゃなかったか。
失ってはじめて大切さに気づくなんて、そんな愚かなことはもうしないと、あのとき私は誓ったんじゃなかったか。

それなのに、どうしてこんなにも狼狽えているんだ。

どうして涙が止まらないのかといえば、
私は、クッキーにとって、全然いい飼い主ではなかったからだ。

実家にいる間、毎日散歩をしてあげていた訳じゃない。
時間があるときしかしてあげずに、母に任せていた。

もっとたくさん一緒に遊んであげればよかった。

もっとたくさん撫でてあげたらよかった。

クッキーはごはんを食べているところを見ていてあげると喜んだ。
クッキーは、「食べるから見ててね」と言っているかのように、ちらちらとその場にいる人を見ながらごはんを食べた。
ごはんをちびちびと食べるクッキーは、たぶんみんなにそばにいてほしくてそうしていたのに、その健気さを面倒に感じてしまうこともあった。

クッキーが満足するくらい一緒にいてあげたことがあっただろうか。

夜中に吠えて起こされる日が続くと、それが動物の本能だとわかっていても、うるさいと怒ってしまったことも何度かある。
怒られて、シュンとして小さくなって、私を見つめるクッキーの目をよく覚えている。私は、その目を見ると、こんなにも小さくて弱い生き物に八つ当たりしたことが恥ずかしくなった。

クッキーは言葉を持たないから、吠えて知らせることしかできないのに。
私はクッキーの声をちゃんと聴いてあげようとしていなかった。


でも、クッキーは、こんなダメな飼い主にも優しかった。

私は、クッキーの遊び相手をしてあげないこともあったのに、私がそばに行くとクッキーはいつも尻尾を振ってすり寄ってきてくれた。

嫌なことがあった日、私はクッキーに愚痴を言った。

田舎の夜道は、だれも歩いていないから、クッキーと散歩しながら泣いてしまうこともあった。
クッキーはそんな私に構わずズンズン歩いていた。
犬にはわかんないよな、と思っていると、ふとクッキーが立ち止まるから、私がしゃがむとクッキーはぺろぺろと私の手を舐めたりした。
涙の味がしたのかもしれないけれど、クッキーは私を励ましてくれているような気がした。


何もわかっていないようにも見えたけれど、何もかもクッキーにはわかっていたのかもしれない。

私は、今年愛する人と一緒に暮らしはじめた。就職試験にも合格した。
最近、妹に彼氏ができた。

私たちのことを、クッキーは、ずっと見守ってくれて、心配してくれていたから、ようやく安心したのかもしれなかった。



クッキーにもう一度会いたい
クッキーを抱きしめたい
クッキーにありがとうと言いたい

私は、そう言って夫の前でびゃあびゃあと泣いた。

私の目から、こんなにも大粒の涙が出るのかと自分でも驚くくらい、涙が出て、止まらなかった。

正直に言うと、ペットロスになっている人がいても、ペットは人間じゃないのにな、とどこかで思ってしまっていた。
私はなんにもわかっていなかった。
人間だから、動物だから、そんなの区別なんかどうでもよくて「家族」なのだと。
家族を失うことは、こんなにも、心臓がはち切れそうな苦しさなのだと。

私は、クッキーにもう一度会わせてくださいと、神様に祈った。

私は、母にビデオ電話した。
クッキーを写して、と母にせがんだ。

画面の向こうのクッキーは、もう目を開いていなかった。

だけど、わずかにお腹を上下させていた。

母の手元が揺れているのか、クッキーが動いているのかわからない。

「クッキー、クッキー」と私は叫んだ。
「クッキー、大好きだよ。」
「クッキーは、ほんとうにいい子だったよ」
「たくさん怒ってごめんね」
「クッキー、我が家に来てくれてありがとう」

涙で画面が揺れる。

画面の向こうから、「クォーン、クォーン」と苦しそうな声がした。

クッキーは、苦しそうだけど、吠えていた。
文字どおり、懸命に。
命を懸けて、吠えていた。

隣にいた夫が「クッキー、ももが明日帰るから、待っててね」と言った。
私は、クッキーがあまりにも苦しそうな、今までに聞いたことのない声で鳴くから、
「待ってなくてもいいよ。最後に声を聞かせてくれてありがとうね。クッキー大好きだよ。」
と言って、電話を切った。

電話を切ってからも、私は涙が止まらなくて、夫の肩の上でまたびゃあびゃあ泣いた。
夫のパーカーは、私の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまった。

いつのまにか夫も「もものこと、今日帰してあげたらよかった」と泣いていた。

目がくりくりして、ふわふわの髪で、もこもこのパーカーを来た夫は、なんだかクッキーみたいで、夫の顔を見ると、また泣けた。

夫の髪をわしゃわしゃ撫でながら、クッキーごめんね、クッキーはいい子だよ、クッキーありがとうと泣き叫んでいた。

はたから見たら、異様な光景である。

はじめは大人しくされるがままになっていた夫も、「ぼくに言ってもしかたがないでしょう!」とちょっと怒っていた。

「クッキー、すごく苦しそうだったけど、ももに会いたそうだったよ。
もものこと待ってるよ。
今日はもう遅いから、明日の朝一番の電車でももは帰るよ。
早く寝て、早く起きて、クッキーに会いに行くよ。」

そう言われて、私は目が覚めた。

そうだ、私は明日クッキーに会うんだ。


もう待ってなくていいよ、というのはクッキーを想っての言葉だった。

でも、クッキーは待っててくれようとしているのに、私がもういいよだなんて、本当は失礼なことだ。それこそ飼い主のエゴだ。

命を搾り出して、明日に繋ごうとしてくれているクッキーに対して失礼だ。

最後くらい、クッキーとちゃんと向き合ってあげなきゃ、本当に飼い主失格だ。


クッキー、会いにいくから、待っててと、胸の中で叫んだ。


夜中に何度も起きて、何度もスマホを確かめた。
母からは、何の連絡もない。

クッキーはまだ生きている。
そう信じて、起きて、準備をして、駅まで向かう。

早起きの苦手な夫も、駅まで見送りに来てくれた。



私は、絶対にクッキーに会うんだと心に決めて、電車に乗った。

駅を行き交う人は、休日で、しかもクリスマスだから、みんなどこかしら華やいでいた。目を腫らして、ボサボサの髪で、電車に乗っているのは私くらいだった。

でも、私は人の目なんて気にならなかった。

何度か涙が出てきたけれど、人目も構わず拭いた。

クッキーに会うんだという一心で実家まで帰ってきた。


クリスマスの朝、奇跡の一つや二つ起こったって不思議じゃない。
絶対に会えると確信していた。


最寄り駅まで、母が迎えに来てくれていた。

実家の扉を開ける。

クッキーは、暖房の前で、毛布に包まれて、身動きせずに眠っていた。

お腹に手をのせると、かすかに温かい。


クッキーは、息をしていた。

クッキーは、待っててくれた。

こんなにもダメな飼い主なのに、ありがとうを言う機会をつくってくれた。


撫でていると、クッキーは尻尾を振って、クッキーは前脚をバタバタ動かした。

後ろ脚は動かない。

もう目は見えていないようで、目は開かなかった。

スポイトで水を上げると少しペロペロと舐めた。

後ろ脚を引き摺って、前脚だけで泳ぐみたいに動いていた。思うように動かせないようだから、抱っこをする。

クッキーは、抱っこが好きじゃないから、バタバタした。

何をしたいのかわからない。でも、クッキーは前に進もうとする。

少しクッキーの好きなようにさせておくと、クッキーは前に進んだ。

クッキーの進んだところが少し濡れていた。

クッキーは、オシッコをしたかったようだった。
自分の家でするのが嫌だから、散歩のときしかしなかったもんね。

そっか、クッキーは、お散歩しようとしたんだね、とお母さんと話す。

クッキーの身体を拭きながら、こんな状態になる前に、なんでもっと一緒にお散歩してあげなかったんだろうという気持ちが込み上げてきて、クッキーにボタボタと涙の粒が落ちた。

クッキーは、オシッコをしたら落ち着いたようで、前脚を動かすのをやめて、またすやすやと寝始めた。

クッキーは毛並みもよくて、筋肉も落ちていなくて、かわいいままだった。

本当に、ただただかわいい。

なんで、もっとかわいがってあげられなかったんだろう。


目が開けない、後ろ脚は動かない、肛門が閉じられない。

それでも、クッキーは懸命に動いていた。

クッキーは、美しく生きていた。

私は、一日中、クッキーを撫でながら、クッキーを見つめていた。



志賀直哉の『城の崎にて』の中で動物たちの死を前にした死生観が描かれる。

蜂の死には、死の静けさへの親しみを覚え、
ネズミの死には、死ぬ前の動揺への恐怖を感じ、
イモリの死には、死が偶然の司るものであると悟る。

クッキーの最期は、志賀直哉が描いた死とは、全然違っていた。

クッキーが死に向かっていることは、誰の目にも明らかだった。


だけど、クッキーは生きることを最期まで諦めなかった。

脚を動かして、尻尾を振って、生きているクッキーの姿を見せてくれた。

かぼそいこえで、何度も鳴いた。パタパタと手足を動かしつづけた。
全然静かじゃない。


夜を徹して起きていようと思っていたが、眠気に抗えず私は寝てしまった。
何度か目覚めるたび、クッキーの動く音が聞こえた。
大丈夫だよ、生きているよとクッキーがみんなに伝えているような気がした。


クッキーは、今朝の10時まで生きていた。

最後に、母の誕生日を祝って、旅立った。


獣医さんには、心臓が弱っていて、いつ動かなくなってもおかしくないと言われたらしい。

それなのに、クッキーは、こんなにも寒い中で、私の到着を待って、母の誕生日を一緒に迎えてから、旅立った。

クッキーは、苦しそうだった。
でも、すごくすごく美しかった。
最期の最期まで。
死への恐怖は感じさせなかった。生の美しさだけがそこにあった。

そして、クッキーが今日まで生きたのは、絶対に偶然なんかじゃない。
クッキーが今日まで生きようとしたから生きたのだ。




私はこのクッキーの最期を、美談として描こうとしたのではない。

玄関の籠の中で毛布に包まれているクッキーは、眠っているようにしか見えなくて。

クッキーの安らかな顔を見るたびに涙がぽとりぽとりと落ちてくる。

何もしないで一人でいると気がおかしくなりそうで、こうして文章を書いている。

後悔しきれぬほどの後悔と、溢れ出る感謝と。
クッキーへの愛情と尊敬と。

クッキーが最期に見せてくれたものを、私はそんな陳腐な言葉で伝えることはできない。

だけど、その片鱗でも伝えられたらと、思いながら書いている。



クッキーの最期は、「死」じゃなかった。
どこまでも、どこまでも、美しい一つの「生」だった。


クッキーは、これまでも、これからも、私の大切な家族だ。


クッキー、ありがとう。

生まれてきてくれてありがとう。

最期の最期まで、生きていてくれてありがとう。

ダメダメな飼い主だったのに、待っていてくれて、ありがとう。


クッキーが見せてくれた美しい生を、私も全うするよ。


追記:
妹が昨晩教えてくれた歌。