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風はさらさら、心はざらざら。

最近涼しくなって、心地よい風を感じる日が多くなった。

それなのに、なぜだろう、暑苦しさを感じていた頃よりも明らかに気分がすぐれない。

なにか特別嫌なことがあったわけでもない。

ただ、なんとなく心がちくちくざらざら。

小さな日常の波風が、知らぬうちに波紋を広げて、気づけばちょっと飲み込まれそうになっていた。


ちくちくの原因。

その1。季節の変わり目の気温差や気圧差。
初めて関東で過ごす夏が終わり、夏の疲れがどっと出た。
宮城に比べて、こちらの夏は暑すぎた。

その2。盲腸になって、自分の頑張り方は間違っていたかもしれないと少し不安になる。

その3。2年半(うち1年間は美術館勤務に専念した)の大学院生活に終止符が打たれる。
学んだ意義はあった。そう思っているけれど、何を得られたのか考えたときに少しグラっとしてしまう瞬間もあって。
卒業おめでとうと言われても、あまりピンとこない。


でも、たぶんいま自分の心がざらついている一番の原因は、別にある。

それは、学芸員に応募したことだ。


私は、一度学芸員になったが、一年半で退職している。
その後は非常勤で美術館で働いたり、大学院で修士号を取得したりした。

もう一度学芸員になりたいという気持ちと、なれないかもしれないという不安が私の中でずっとせめぎ合っていた。

だが、ここ最近は、学芸員にはならずに、自分の文章を書いて、絵を描く道を進もう、と思っていたし、そうnoteにも書いていた。


でも、いざ募集が出ると、やっぱり応募したいという気持ちがむくむくと沸き起こってきた。
消した選択肢だと思っていたけれど、まだ消せていなかった。

私は、やっぱり美術が好きで。美術館が好きで。
好きなだけじゃどうしようもないこともわかっている。

でも、好きな気持ちがなかったら、きっと学芸員はつとまらない。

人と作品を、そして作品を通して人と人とをつなげるのが学芸員の仕事だと私は思う。

ほかの誰かより自分のほうが優れているとは言えないけれど、今の自分は、過去の自分よりも、ずっと美術や美術館のことが好きだと自信をもって言える。

そして、今の私は、以前より、人が好きになった。
人は怖い、人は愚かだ、と思っていた時期もあった。いまもそう思う気持ちがなくなったわけじゃないけれど、以前より人の温かさを実感している。
それにはnoteで出会った人の影響もあるし、実生活で出会った人や一緒に暮らしている夫の影響もある。


私は、多くの人に作品と出会う機会を提供したい。

そして、作品に込められた作者の想いを、そして作品に映る時代の心を、多くの人に伝えたいと思っている。

私が語る美術の物語をおもしろいと言ってくださる方たちに、noteで出会えた。もっと美術の話をしてほしいと言ってもらうと、とてもくすぐったい気持ちになる。

私は、もっと語りたい。

noteでも語れるけれど、本物の作品と出逢ってほしいし、作品を前にして、伝えたいとも思う。

公だからできることも、個だからできることもある。
でも公でやるには、年齢制限があるところが多い。


私は、応募できる限り、応募してみよう、と決めた。

受からないかもしれないという不安も、受かっても上手くやれるだろうか、向いていないかもしれない、という不安もあるけれど。

でも、いまの自分だからこそ、学芸員としてできることがあるんじゃないかと思うから。

「諦めたほうがいい夢もある」と誰かは言う。
でも、それは諦めたから言える言葉なんじゃないかとも思う。
私はまだ諦めたくない。それが本心なのだ。


だけど、いざ挑戦しようと決めると、今の自分が何もできていないように思えてしまって苦しかった。

自分が大事にしていた生活が、無価値なように思えて、お遊びのように思えてしまった。

そうして、心に秋風が吹いていた。


ささくれた気持ちを抱えたまま、私は実家に帰った。
大学の卒業式に出席するためだ。


実家で、美術館の学芸員に応募したことを家族に話した。

「美術館で働くようになったら、金銭的には余裕ができるだろうから、気軽に家に帰って来れるようになるかもしれないな」と父は言う。

「受かったらの話だよ。まだ受かるかどうかわからない。」と私は言う。
あまり期待させたくなかった。捕らぬ狸のなんとやらになってほしくない。
「倍率からして、受からない可能性の方がずっと高いんだよ」と念を押す。

「受からなくたって、いいんじゃない。いまの暮らしだって、ちょっとやめられないくらい素敵な暮らしでしょう。」と母が言う。

そうかもしれない、と私は答えた。
そうだ、私はいまの暮らしだって好きなのだ。家を掃除したり、本を読んだり、文章を書いたり、絵を描いたり、料理をつくったりする今の生活も好きだ。貯金は、十分とは言えない。けれど、とても豊かな時間を過ごしているのだから。

「がんばりすぎないように。ぺこりんくんにも、無理させないように。二人がいいと思った暮らしなら、それでいいんだから。」と父も言う。


私は、たぶん「後の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり」となることを恐れていたのだ。

受からなくてもそれはそれでいいだなんて気持ちでいたら、受かるものも受からないでしまうんじゃないかと。

今の暮らしを肯定することが、学芸員になるのを諦めることにつながってしまうと思い込んでいた。


だけど、そうじゃなくて。
学芸員になるという夢を持ちながら、今の暮らしを肯定してもいいんだと思う。

学芸員になれば、今の暮らしをそのまま続けることは難しい。
毎日丁寧にごはんはつくれないだろうし、絵を描く時間や文章を書ける時間も減るだろう。
でも、休みの日には、たまには丁寧なごはんをつくることもできるし、絵を描く時間もきっととれる。学芸員になれば、仕事でも文章を書く機会はたくさんある。

それに、たとえ学芸員になれなくとも、これまでどおり描いたり書いたりしつづけていれば、「人と作品をつなぐ、作品を通して人と人をつなぐ」という大きな夢に向かっていくことに変わりない。

どちらかを肯定し、どちらかを否定するんじゃなくて、どっちも肯定したっていいんだ。

学芸員になれても、なれなくとも、私の夢は大きくは変わらない。

そう思ったら、ざらざらした心にも、心地よい風がすうっと通った気がした。