寂寞という名のネズミについて
ペットが死んだ。
私が彼にしてやれることはもうない。だから、せめて思い出話でもしようと思う。
ジャンガリアンハムスターのオス。体毛はクリーム色とグレーの中間くらい。享年2歳8ヶ月。彼の名は寂寞(せきばく)。寂しげで静かな様子を表す熟語だ。
彼がこんな名前になったのは理由がある。寂寞を迎えたのは、恋人との同居を解消した翌日だ。なんてわかりやすい感情の動きだろうか。つまり寂しくなって、それを埋めてくれる何かを求めた。寂しさを食べてくれる存在だから、寂寞と名付けた。
当時私は職がなく、1日中家にいた。2Kの部屋は2人で暮らすには窮屈過ぎたが、1人には広過ぎた。恋人に別れを告げたのは自分からだったが、だからといって寂しさを感じないわけではない。身勝手かもしれないが、そういうものだ。
寂しさと部屋の空間を埋める寂寞ネズミは、東急ハンズで3000円で購入した。同じケースの中には他にもたくさんのネズミがいた。珍しいアルビノの白い個体もいたし、最初はその個体にしようかとも思った。
そもそもペットを飼うつもりなんて、まったくなかった。ただちょっと、今までの自分ならしなさそうなことを思い切ってしてみたかっただけなのだ。
店員さんに声をかけて、たくさんのハムスター のなかから選ばせてもらった。少しなら触れるというので、ケースに手を入れると、当然ながらネズミは逃げた。唯一寄ってきたのが、黄色い個体。
選ぶなら彼しかいない。
普通の買い物と違い「ちゃんと責任を持って飼います」という誓約書に署名した。3000円のつもりだったが、むき出しで放し飼いにするわけにはいかない。ハムスターのケージ、寝床の木の小屋、トイレと砂、気に入りそうなエサ。なんだかんだで支払いは1万円を超えた。無職にはかなり痛い。痛いからこそ、ちゃんと買おうと思った。金額でしか、命の価値を実感できない。
ちなみに専門のペットショップに行けば、ハムスターは1匹500円程度で買える。ケージだってエサだって、ネットで探せばもっと安いものは見つかる。あらかじめよく調べておけば、同じ内容で5000円程度にすることもできたはずだ。その場合、愛情も半額になっただろうか?
ドキドキしながら電車に乗って(俺は今ハムスター を抱えて立っている!)部屋に帰った。新しい2人暮らしだ。
それから1週間は辛抱の時間。環境が変わってストレスを感じているから、触ってはいけないし、できれば見ない方がいい。布を被せてただじっと待ち、気配を感じるだけ。1番かわいたがりたい時期に、触ってはいけない。触ったとしても、私を叱る人はいないのだけど、ちゃんと飼いますと、誓約書も書いたんだ。
ハムスターの寿命は2年から3年。だからちゃんと3年飼って、きちんと世話をして、自分もちゃんと生きようと思った。ちゃんと朝起きて、毎日水を変えてエサをやって、おがくずやトイレの掃除もする。触るのはほどほどに。無理に起こさない。働いてエサ代も稼ぐ。
その約束を果たせたかは、わからない。
寂寞が冷たくなる数日前、調子が悪そうだったので、動物病院で診せたら「2歳を超えてるとは思えないくらい若々しい」「もしもがあっても大往生ですね」と言ってもらえた。期間だけいえば、十分長生きさせられたと思う。だけど、世話をしていたのも、動物病院に連れて行ったのも、私ではない。
窮屈な暮らしに耐えきれなくなって同居を解消した恋人には、1年ほどで戻ってきてもらったのだ。住む場所こそ違えたものの、関係自体は続いていた。正確にいえば一度は別れたものの、1ヶ月もたたずに謝って復縁してもらっていたのだ。
情けないことに、ひとりと1匹の暮らしに、耐えられなかった。
なので最初の1年は私が寂寞の世話をしていたが、2度目の同居が始まると、ほとんど彼女に任せきりになってしまった。
幸いなことに彼女は私なんかより、ずっと動物が好きで、寂寞のこともたいそう可愛がってくれた。名前だけは気に入らなかったそうで、本名の寂寞ではなく「せっきー」と読んでいた。もしくはハムス。
せっきーは散歩が好きで、何度か脱走までしている。自作のケージは半畳ほどの面積があり、ジャンガリアンハムスターとしては破格の待遇だったが、彼はそれでは満足しなかったらしい。ある日帰宅すると、玄関で何かの気配がした。まっさきに頭をよぎったのはゴキブリ。出たか! と身構えながら電気をつけると、何か黄色いものが靴箱の暗がりに逃げ込んだ。「せっきー!」恋人の叫びで、それが大事な寂寞だと理解した。幸いなことに踏み潰すことなく、すぐに捕獲できた。部屋の外に駆けて行かなくて本当によかった。
フタをしっかりしめて重りも置いたはずなのに、寂寞はその後も数回脱走している。危険なので脱走はしない方がいいのだけど、生活のなかに突然現れるハムスターは、面白くて愛おしくて、なぜか少し笑ってしまう。自分で脱走したくせに、キョトンとした顔で立っているのだ。
3月生まれの寂寞は、2回目の冬を越えて2歳になったころから眠る時間が増えた。ケージを噛まなくなったし、雲梯もあまりしない。まるまると太っていた身体も、ちょっとしぼんでいた。
とはいえ、調子が悪かったわけではない。起きているときは元気に走り回ったし、エサもよく食べ、夜中には回し車で走っていた。
決定的な不調に気付いたのは、やはり私ではなく恋人だった。彼女は漫画家で、週に一度バイトに出る以外の日は、ほぼ1日中ケージの横で漫画を描いている。
「鼻の色が違う」
言われてみれば、いつもはピンクの鼻に、色味がない。「あごの下、濡れてない?」あとでわかったが、皮膚が荒れていたらしい。
昨日まで毛艶もよく、元気に散歩もしていたのに、急に老け込んでしまった。近所にハムスターの診療ができる動物病院があることは、あらかじめ調べていたので、彼女に連れて行ってもらうよう頼んだ。寂寞を飼って数ヶ月後、私は貯金が尽きる前に再就職を果たしていた。収入が安定した代わりに、自由に時間を使えなくなった。寂寞が苦しそうにしていても、彼を置いて会社に行く。
ちゃんとするってなんなんだろう。
抗生物質を処方され、注射で飲ませるように言われたらしい。砂糖水で溶かした液を口元に持っていくと、意外とごくごく飲んでくれたので安心したが、数秒後に全部吐いてしまう。手が砂糖水とネズミのよだれでべとべとになった。
寝たらよくなっている。そう期待して一晩過ごした。寒くなってきたのでハムスター用の布団買ったばかりで、朝見たらそのなかで寝ていたのでちょっと安心した。
昼ごろ、やはり気付いたのは彼女だった。寝ていたはずの寂寞は、その姿勢のまま冷たくなっていた。
疑似冬眠なら、あたためれば目を覚ますかも……そんなわけなかった。いつもなら丸まって寝ている寂寞が、身体を横たえて伸びている。
「初めてちゃんと触ったかも」「毛並みがいいね」
生きているときは、こんなにしっかり撫でられなかった。
うちに庭はない。埋められる場所がないので、プランター葬をすることにした。数時間歩き回ってプランターと土を用意した。明日花を買いに行こうと思う。似た色の花がいい。
寂寞が暮らしていたケージはまだそのままにしてある。ふとした瞬間、音がしたような気がして、視線がケージに行く。二足歩行でキョロキョロしている寂寞の姿はない。
土の中は寒くないといい。小学生ぶりに見た腐葉土はくさくて、あったかそうだった。だからたぶん大丈夫だろう。花と土があたためてくれる。
寂寞がいるから、夏はずっとエアコンをつけっぱなしだったし、秋冬は暖房を切ることはなかった。今日はちょっと肌寒いけど、このくらいなら我慢できるのでエアコンはつけていない。まだ我慢できる。
だけど、とても寒い。
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