『鎌倉殿の13人』最終回記念 自分の卒論「源頼朝の伊豆挙兵の背景」を読み直す
アテンション!!
筆者学生時代の拙い卒論の、ざっくりまとめです!
参考資料が2000年代までで止まってます!
論の飛躍があります!
結構無理矢理です!
今これ卒論以外の史料資料見ずに書いてます!
この文を参考にするのは、非常に危険です!
あくまで読み物として読んで下さいね!!
あくまで読み物として読んで下さいね!!!
(大事な事なんで2度)
こんなノリで良ければお付き合い下さい。
(多分参考文献リストは、書き上げたら後日追記します)
源頼朝の伊豆挙兵の背景
ざっくりまとめ
この記事は、筆者の学生時代の卒論、『源頼朝の伊豆挙兵の背景』を、
最終回放送の本日、頑張って思い出しながらまとめを書こう、というものです。
放送開始までのタイムトライアルです。自分で自分の首絞める企画です。
お付き合いいただける方だけ、どうぞごゆるりと。
(多分、更新後もちょいちょい書き直し予定)
(あと、題名等々ちょいちょい変えてます)
当時の卒論の目次
京の院政
当時の院政状況
後白河院
後白河院を取り巻く人々と院の近臣
伊豆と京
東海道と伊豆
流刑地として
流刑地伊豆
頼朝の流刑状況
希義との土佐流刑との比較古代からの海上交通
伊豆の武士団と北条時政
伊豆地域の武士団
北条時政の人物性
時政の先行研究
時政の人物性
北条時政の在京性
時政と牧の方
時政と牧宗親から繋がる院の近臣たち
ま、こんな感じでした。
多分書ききれないので、端折りながら行きます。
挙兵まで大体の流れ
時は平安末期。
朝廷内の争いから保元の乱が勃発します。
ごっしー…、げふんげふん、後白河v.s.崇徳ですね。鳥羽上皇の子供同士の争いになります。以後それぞれ、後白河院、崇徳院、鳥羽院と表記します。摂関家公家勢力、武士勢力を二分して争いました。
保元の乱後は、勝った後白河院派閥の中で争いが起こります。その争いの中のひとつが、平治の乱。平清盛v.s.源義朝の争いでした。
名前の通り、勝ったのは平家。
参戦していた13歳の源頼朝は、捕らえられた後、平清盛の義母である池禅尼に命乞いされ、伊豆に流刑になります。ここまでが1160(永暦元)年。
それから20年後の1180(治承4)年、33歳となった頼朝は、挙兵したのでした。
ではまず、流刑となるまでに何があったのか。
後白河院を取り巻く人々から見てみましょう。
後白河院を取り巻く人々と院の近臣
(こっから少し、ごちゃっとするよ!)
後白河院の立ち位置を理解する上で、把握しておきたい2つの派閥。
鳥羽院ー待賢門院
と
鳥羽院ー美福門院
後白河院は鳥羽院の皇后、待賢門院の第4皇子です。元々即位や権力を握る予定では無く、文化に勤しんでました。ひとまず待賢門院派閥、と把握して頂ければ。
美福門院は鳥羽院の寵姫で、多くの荘園が勢力圏にありました。
…ぶっちゃけ、この辺は大河ドラマだと『清盛』の方が詳しい気がします。(元も子もない)
保元の乱で後白河院側が勝った後、政治的争いの流れとして、
後白河院v.s.二条(と外戚の平家)の戦いは、
二条・平家勝利。
但し、すぐに二条が崩御した為、
後白河院と、二条の空白を埋めたい平家は
一旦協調路線へ。
一方で、平家の台頭に危機感を抱き、
対立していたはずの後白河院と美福門院側が
院の近臣サイドとして纏まっていきます。
源頼朝の助命嘆願。
まだ13歳で、池禅尼の亡き息子と
同じ歳だったからされた助命嘆願が有名ですが、
この卒論で加える視点として、
平家に対抗しうる駒として、頼朝を手の届く位置にキープした、
という説を考えてみました。
具体的にどういう状況かと言えば、
後白河院側は、
待賢門院の娘上西門院に仕えていた源頼朝を、待賢門院に仕えていた乳母の池禅尼に助命嘆願させました。
また、待賢門院に仕えていた比企尼が頼朝の乳母でもあり、所領の坂東へ息子夫婦と下り、家族ぐるみで源頼朝への援助をしました。
美福門院側は、自分の勢力圏の荘園の内、遠江に所領のあった、牧宗親を置きました。(後に北条時政と関わります)
この派閥は後に、八条院派閥に移行します。
つまり、単なる流刑というより、京からは離れていても、ごりごりの院近臣勢力圏に置いた、というイメージです。
ま、これは流刑当時の話で、
その後、待賢門院は死去していたので勢力が弱まり、
後白河院と平清盛が対立して後白河院が幽閉されます。
平家側が安徳天皇を即位させる一方で、
反平氏勢力として、
後白河院、八条院派閥、源氏…と纏まっていくのです。
(余談 卒論では、木曽義仲は八条院派閥からの挙兵だったので、上京後、後白河院の命令に従わないで暴れ、対立した説を取ってました)
流刑地 伊豆
正直、伊豆に関しては、こんな武力的火薬庫みたいな土地に、何故流したんだと言いたいお土地柄です。笑
遠流と言われる重い流刑地でありながら、平安末期の当時としても東海道からのアクセスが良いです。(勿論現在も良くて、国道1号線、三島で曲がって真っ直ぐ南へ下れば着きます)
(甲斐へのアクセスも良い、実際『鎌倉殿の13人』でも援軍依頼に行ってますね。)
周辺は大岡牧など、牧と呼ばれる馬の生産地が多いし、現在まで関連地名が残っています。
伊豆からは海上交通に造船も盛んだったようで、伊豆地域に舟久保など、舟関連の地名も現在まで残っています。
じゃなんで元々流刑地なんだと言うと、元は伊豆半島の先、伊豆大島へ流刑になる事が多かったようです。
源頼朝の親戚、源為朝が流刑になり、後々討伐されてますね。討伐する側に北条の名も、確か加わってたかと。
ただ、どちらかというと、伊豆半島へは、僧侶や政治的争いで負けた人物などが、多く流刑になっていたようです。
実際、頼朝挙兵で真っ先に討たれる山木兼隆も、元々は政治的流人で、源頼朝が配流になった時に、頼朝の監視役として任じられた…と、卒論には書いてあります。(おいおい)
山木兼隆が更に命じて、伊東と北条に監視をさせ、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の冒頭に至る、という所でしょうか。
話を戻すと、一般犯罪者だけでなく、京で派閥争いなどに敗れた者の、政治的な左遷地?の意味合いもあったようです。
平治の乱はどちらかと言うと、平家と源氏の武家同士の争いの面が強かった為、公家目線では源頼朝も左遷扱いだった、と考えられるかもです。
これで更に、比企尼からの食糧援助が20年あり、比企の縁者の安達盛長を遣わせて、京のと頼朝の元を行き来させたり。(安達殿〜!)
坂東には三浦、土肥、仁田、和田、利害の一致する武士団達がいたり。後から畠山、千葉、上総…。
…あ、これ、源頼朝、というカリスマ性のあるリーダー投入したら、利害一致すれば纏まるな?!おっかないな?!(大河『鎌倉殿の13人』視聴後感想)
あ、ドラマ通り、三善康信殿が、京から情報を伝えるお手紙、送ってた事も取り上げています。『鎌倉殿の13人』で出てきた時、三善殿だ~~!と盛り上がりました(独りで)。
そもそもの話、平安末期には、地頭の在地領主化が進んでいました。
比較として源希義(実弟)
マニアックなとこ付いてきたと思ったでしょ?私、頼朝も好きだけど、義経も好きで。当時多分真っ正面から義経を扱えなかったんですよ(きゃー赤面)。
源頼朝は元は3男、母親は熱田神宮の宮司の娘なんですけど(この辺の血筋も重宝されたようです)、
希義は頼朝の同母弟になります。
同じタイミングで流刑になり、希義当時8歳。土佐の夜須の荘に流されました。一見、京に近いようで、伊豆より400里遠い所でした。
更に、四国は周り殆ど平家の勢力圏でした。
この為、頼朝挙兵後、希義には討伐命令が出たので味方の元へ逃げたんですが、味方の所まで離れていて、追手に討たれてしまいました。
(討った追手は、後々源氏側にきっちり討たれました。その後、四国は源氏に従ったようです)
頼朝 伊豆
東海道アクセス良い
馬=陸の軍事力も豊富
海上交通盛ん
近場に味方になりそうな武士団が多い
平家の本軍が遠い
希義 土佐
四国で海越え、更に山越えのハードル
海上交通…盛んではあったかもだけど平家の勢力圏
味方武士の拠点が離れている
うーん、頼朝と連絡、取れてたとしても難しかったかな〜?
という比較でした。
『鎌倉殿の13人』観た後なら、義円、全成、範頼、義経も込みで条件比較したかったかもですね。出家してる都合、また条件違うかもですが。
ここで登場、北条時政
元々は平家側の武士。但し、京の大判役から戻ったら、娘の政子が源頼朝と恋をした。というのは、おおよそご存知の通りです。
卒論では時政の在京性、結構行き来してたんじゃないか的な事書いてたのですが、割愛します。
ここで重要なのは、時政の後妻、牧の方です。そうです、りくさんです。
八条院の荘園、大岡牧にいたのが牧宗親含めた牧氏です。
つまり、牧の方の存在によって、頼朝の後白河院派閥だけでなく、北条時政は八条院派閥の縁も得ていた事になるのです。
挙兵のタイミングで、源頼朝、北条時政、坂東武者、後白河院派閥、八条院派閥、が反平氏としてまとまったのです。
ちょっと間に合わなそうなので、この辺は放送終了後の後日追記書き直し予定です。
最後の注釈に、我等が義時登場
あれ、ここまで、我等が大河の主人公、義時が出てきてない?(汗)
と思ってたら、最後の最後に出てきました、よかった!
亀の前事件で、頼朝が牧宗親の髷を切った後、怒って時政が伊豆へ帰ってしまったが、義時は戻ってきた件を書いてました。
当時の筆者解釈としては、時政は牧宗親を宥めに伊豆へ戻ったと考えたようです。
以上、纏めると
源頼朝が流刑になった当時、
平家に水面下で対抗する後白河院、
院の近臣サイドによって、
流刑という形で、勢力圏の伊豆に「置かれた」
その為に、後白河院ー待賢門院派閥の
比企尼…比企一族、安達盛長、
を近くに置き、
美福門院ー八条院派閥は
牧宗近と牧の方が時政に結びついた。
更に伊豆は地理条件として動きやすい
坂東武士団
平家側も多いが、
源氏側につきやすい武士団も多い
三善殿の定期的な京情報
というような条件が重なり、
源頼朝は挙兵出来た。
という落とし所でした〜〜!
お疲れ様でした〜〜!
読了 お疲れ様でした!
いやまぁ、
3万字の卒論を斜め読みして
スマホで纏めてる感じなんで
参考にはするな、これは読み物だ、OK?
論文や本書くなら、
ちゃんと文献や論文当たってね☆
いよいよ最終回。
『鎌倉殿の13人』が最終回を迎える今、
卒論書いてる時にはわからなかった、
坂東武者達の荒々しい生き生きとした姿。
新しい体制を立ち上げる大変さ。
政治の重要性や重さ。
(それに伴い、現代の民主制、基本的には人が簡単には死なない政治のありがたさ)
頑張れ、黒義時。
お前、結構好きだよ…。
あと、『鎌倉殿の13人』観た後なら、
意地でも卒論に大江殿出してたと思う。
いいよね!仕事優秀な文官!!!
政子の演説、かっこよかった!!!
これ観る為に、みんな1年頑張ったよね!
いざ、最終回!
武衛のみんな、見届けような!!!
(吾妻鏡の引用部分で、武衛って記述見つけて、テンション上がった人。笑)
参考文献(卒論執筆当時)
後日アップします。
おまけ
卒論を書き上げ、無事卒業してから早幾年。
内容なんてほとんど忘れた私に、
とんでもないニュースが入ってきました。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
脚本 三谷幸喜
何という事でしょう。
筆者はとてもフィーバーしました。
うん、当時の私、よくおわかりで。
その後。放送が始まり、毎週欠かさず観ることになりました。
時に爆笑、時にそうきたか!と うなり、時に悲鳴をあげながら。
ツイッターでトレンドを眺めれば、
卒論執筆当時には知らなかった沢山の逸話が感想と共に流れてきました。
どっぷり1年、平安、鎌倉時代につかることが出来た、
幸せな年になりました。
そして、夏。
三嶋大社に、源頼朝公が!
佐殿が、鎌倉殿が、目の前に!!!
卒論書いて、○○年。こんな贈り物があるとは!!!
ありがとうございました。
(著作権問題ありましたら、そっと下げるので
コメントに連絡おねがいします。)
三嶋大祭りのひゃっはー!っぷり、
蒲殿や安達殿、やればできる仁田殿も含め
下の記事に詳しく。