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あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ 小野茂樹

この短歌を見たとき、ものすごく印象に残った。それがなぜなのか考えてみた。その結果「揺さぶられる」からではないかと思った。

「全体と個別」間の揺さぶり

表情全体から個別の表情をみると、泣き•笑い•怒りなど表情は無数に、「数かぎりなく」存在する。しかし、それぞれ個別の表情を表情全体に照らし合わせてみると、どの表情も「たった一つ」の表情である。

つまり、私は、表情全体と個別の表情の間を揺さぶられたのである。

「現在と過去」間の揺さぶり

「あの夏」という部分からは、視点が現在から過去にむけられているということがわかる。しかし、「〜をせよ」という部分は、命令形であり視点は現在にとどまっている。

つまり、冒頭の「あの夏」で現在から過去に引き込まれたかと思いきや、最後の「〜をせよ」で現在に戻されるのだ。私は現在と過去の間を揺さぶられている。

まとめ

この短歌には、2つの揺さぶりがある。1つ目は「全体と個別」の揺さぶり、2つ目は「現在と過去」の揺さぶりだ。「揺さぶり」という概念は、この短歌を見たときのインパクトに結びついていると思う。

宇宙に対して質問したい。君は誰だ。

私の好きな言葉に「宇宙に対して質問したい。君は誰だ。」という言葉がある。この言葉を「揺さぶり」という観点で考察してみたい。

まず、この言葉を発した人間のいる場所について考えてみる。

「宇宙に対して質問したい」という部分からは、宇宙を見上げている絵が想像される。この人間は地球から遠い宇宙を見上げて問いかけている、ということが読み取れる。

しかし、「君は誰だ」といった瞬間、この人間は宇宙のすぐそばにいるような気がする。例えば隣にいる人に「あなたは誰ですか?」と尋ねる時のように。

つまり冒頭で宇宙から遠くに離れた場所にいるかと思いきや、「君は誰だ」で一気に宇宙のすぐ横まで引き込まれるのだ。これも一種の「揺さぶり」だといえる。

私はこれらのような「揺さぶり」のある言葉が好きなのかもしれない。








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