杉山徹心という男の肖像

ナポリ山脈とは何か。
 イタリアのナポリとは一切の関係がない。
 ナポリの男たちという、イタリアとは全く無関係のゲーム実況グループが存在する。
 また、TRPGという、様々な冒険に挑むキャラクターを自らなりきって演じるゲームがあり、その一つに『クトゥルフの呼び声』というホラーテイストの作品があり、その物語の一つに、『狂気山脈 邪神の山嶺』という本格的な登山を題材にした物語がある。
 ナポリの男たちが、その物語をプレイし、その様子がYoutubeで配信された。

これは結構すごいことだ。
 ナポリの男たちといえば、ゲーム実況文化の黎明期を支えたジャック・オ・蘭たんを筆頭に、すぎる、hacchi、shu3という界隈では名だたる実況者たちによるユニットであり、ゲーム実況という枠にとらわれない活動によって近年めきめきと知名度を上昇させている。
 (最近では怪人の着ぐるみを着てサンリオピューロランドで着ぐるみと戯れた。なぜだ?)

 一方、『クトゥルフの呼び声』(以下CoCと呼称)も、TRPGという遊びの中で、おそらく日本ではずば抜けて知名度の高い作品であろう。特に『狂気山脈 邪神の山嶺』を執筆したまだら牛さんは山小屋運営をするほどの正真正銘の登山家であり、この物語はそのリアリズムに貫徹された作風から一躍配信TRPG界を席巻した。キーパー(司会者役)のむつーさんも業界では知られた名司会者である。この企画はナポリ、TRPG双方のファンにとって大いに話題を呼ぶ出来事であったのだ。

 ここから先はその内容について少し踏み込んだことを書いている。もしも気になってはいたがまだ見れていないという人は先に動画を視聴することをオススメするし、どちらについてもよく知らないがこの記事にたどり着いてしまった人には、いきなり7時間の動画を見るのは荷が重いだろうから、まずは「ナポリの男たち」や「TRPGリプレイ」で検索して、琴線に触れた動画を見てみてほしい。

 この配信が終わった後、ナポリの男たちが演じたキャラクターについて、多くのファンアートが投稿された。その多くが志海三郎についてのものであったことは、かの動画を見終えたものにとっては想像に難くないだろう。

『狂気山脈』は得てして苛烈なシナリオであり、道半ばにしてNPCだけでなくPCにも死者が出ることは決して珍しいことではない。その中でナポリの男たちはしっかりと見せ場を作りながらも、NPC、PCともに危機を次々と回避していった。各自のキャラクターの奇妙な非現実感もあり、数々配信された『狂気山脈』の中でも、比較的軽やかな印象を残す旅路であったといえよう。

 それだけに志海が最後の最後で視聴者たちに与えた印象は絶大なものであったのだ。さらに明確な死としては描かれていないその末路(ルール上は確かに「生きて」いる)も、様々な想像を掻き立て、彼というキャラクターの底知れない人間性と相まって、物語に複雑な後味を残している。

 ただ白状するなら、私はある意味で、彼の結末を「読めてしまった」部分がある。私がナポリ山脈の動画を見終えたのは、それがリアルタイムで配信されてからずっと後のことであり、内容については見ることを避けていたものの、感想のざわめきから「PCの誰かしらが死ぬ」ことは予想できてしまっていた。

 故に、志海の末路に対する私の感慨とは、どこか腑に落ちるような安心感のあるものであった。もしリアルタイムで視聴していたら、多くの視聴者を狂わせたような、あの「山から降りてこられない」感覚に私も囚われていたかも知れない。

 私を驚かせ、心を奪ったのは杉山徹心であった。

 hacchiさん演じる八木山が、志海を探しての再登頂を誓ったところで、八木山という人物についての物語の最後のページが閉じられていくように感じられた。それもまた、TRPGのキャラクターの締めくくりとしては正しい在り方だ。杉山もまた狂気山脈に挑むのか、それとも新たな野生との戦いに己を見いだすのか、というどちらかの決断を予想していた。

 だが、すぎるさんはそうした決断を選ばなかった。杉山は挫けたのだ。

 たしかにPCたちはこの世ならざる恐ろしい経験をし、少なからず傷ついた。しかし、それはそう重い傷ではない。とくにプレイヤーにとっては尚更だ。彼らは生きて山を後にし、狂気をその身に刻まれることもなかった。親しく交わったNPC達も無事に帰ってきた。

加えて、CoCにおける正気度の減少とはそれだけで精神を揺るがすほどの動揺であるとわかっていても、どうしても目の前の事務的な処理との比較から、プレイヤーはキャラクターの心の動揺を軽視してしまいがちだ。

 八木山は志海の喪失という損失に対して、それを取り戻すという展望を示した。蘭たん演じるえべたんは、コージーの生還という報酬を未来につないだ。その狭間にあって、山頂に立ち、生還しながらも、「邪神の山嶺」への敗北を胸に刻みつけられるという選択を選んだ杉山は、あまりにクトゥルフ的であり、あまりに人間的だ。

 私はこのとき、すぎるさんという人がこれほど真摯に『狂気山脈』という物語と杉山徹心というキャラクターに向き合っていることに、おもわず息を飲むほどに感動した。

 実を言うと、私はそれほどすぎるさんの実況を得意としていなかった。(特にYoutubeに移行してから)

 面白くないなどということはない。ただ、現在はほぼナポリでの活躍のみのhacchiさんを除けば、蘭たんもshu3も巧みな「演出」を得意とする、ニコニコ動画全盛期の雰囲気を強く残す実況者なのに対し、すぎるさんの持ち味は現在のVtuberなどに通じるような「ライブ感」だからだ。

 私は、迷ったり試行錯誤している様子をリアルタイムに見せる無編集の長時間ゲーム配信があまり得意ではなく、それ故にナポリが好きなのだ。(『ナポリ山脈』を見るのにもだいぶ苦労した。)

 今回の4人のキャラクターにも、各自の配信の持ち味が出ていた。えべたんは老獪で雄弁、志海は朴訥としながらも洒脱、八木山は冷静なバランサーで、杉山は「ライブ感」にあふれていた。

 動画のコメントを見ても、視聴者も「杉山という(マッチョな)キャラクター」が崩れ、演技にすぎるさん自身の人格が見え隠れするようなところを楽しんでいるようなところが見られた。全体を通して、杉山というキャラクターの人格にはブレが大きい。

それだけに彼の「挫折」は大きな意味を持つのだ。

 キャラクター造形の点から、4人のキャラクターをそれぞれ分類してみた。

えべたんは「切り離し/超現実」型である。特にYoutubeに移って以降の蘭たんの実況に顕著に見られる、「自分を主人公の隣にいる架空の相棒に見立てて実況する」というスタイルが好例だろう。これによって、ゲームの主人公と自分を同じ感情の文脈の中に置きながら、主人公が激昂しているのにプレイヤーは冷静であったり、主人公が意に反した行動をとった時の精神的矛盾を回避している。蘭たんはつねにツッコミ役として舞台で待ち構えており、巧みにキャラクターを代わる代わる舞台に上げ、まるで掛け合いであるかのように話を運ぶのだ。

 その性質上蘭たんという人物はTRPGのロールプレイ(演技)にも高い順応性を見せており、他のメンバーたちが戸惑っていたTRPG初体験の『LIFE GOES ON』でもすでにキャラクター演技をものにしていた節がある。蘭たんの作るキャラクターはゲームの主人公のように突飛でありながら、同時に狂言回しとしての役割も器用にこなしている。

 志海は「切り離し/現実」型だ。shu3の実況スタイルは冷徹で、己の感情を決してゲームに投影しない。淡々と数千頭の馬を選別し続け、一つのミニゲームを20時間以上やり続け、最弱の武器で最強のボスを一日中つつき続ける狂気的なプレイングが彼の実況の魅力だ。

 志海というキャラクターは、プレイヤーshu3の「底知れない」という魅力を前面に押し出したキャラクターだ。物腰柔らかで、筋骨隆々。人間嫌いのようでどこか親しげで、マゾヒストなのかサディストなのかよくわからない。まさしくshu3のステレオタイプ的なパブリックイメージを結実させたキャラクターといえるだろう。シナリオの危険性を十分に理解し、その中でいつ死んでもいいように着々と危険なフラグを積み重ね、最後には不運(見ようによっては幸運)を味方につける形で、視聴者の話題をかっさらっていった。

 志海は果てしない忍従と執念を一瞬の爆発力に変えるshu3の実況スタイルがTRPGの中で如実に花開いたキャラクターだ。おそらく次回またナポリTRPGがあるとしても、shu3は志海とそう遠からざるキャラクターを用意するのではないだろうか。彼は自分の「魅せ方」を理解しているように思える。

 八木山は「投影/現実」型だ。志海と似ているようで、八木山にはよりhacchiさん自身の「自己」がある。蘭たんはゲームに合わせたキャラクター・ロールプレイの天才だが、hacchiさんは「hacchi」をロールプレイする天才なのだ。ため息をつき、厭世的なセリフを呟き、絶望しているような顔をしながら、実は誰よりも周りを見回し、状況を楽しんでいる。ナポリの配信を見ていれば、視聴者や仲間たちによって魔改造され、一人歩きしていくshu3のモチーフ(と、それを困惑しながらも我が物として弄ぶshu3)と対照的に、個人実況という自己アピールの供給がないにも関わらず、圧倒的な「イメージ通り」の言動で絶大な存在感を示し続けるhacchiさんの姿が浮かぶだろう。

 八木山は明白に「hacchiのキャラクター」であり、他の誰にも演じることはできない。そして、その元来の誠実さから、少し地上から浮き上がった他のキャラクターの人格を取りまとめ、『狂気山脈』の物語の中心を歩み抜いた。彼が志海を探す新たな冒険に出ることは、まさしく『ナポリ山脈』の正史的エピローグと言えるだろう。

 杉山は「投影/超現実」型だ。このタイプはTRPGのキャラクター造形において非常に危険だ。キャラクターに自己投影し、一体化しているにも関わらず、キャラクターの能力や精神性が想像力の範疇を超越しているので、物語の中でプレイヤーの想定に反した結果が生じた時、思考をトレースしきれずに硬直してしまったり、白けてしまったりする恐れがあるからだ。

 実際に物語の中で「すぎるさん」っぽい言動を覗かせる部分は多々あり、序盤の少しいかめしい物言いとのギャップからこのマッチョで傲慢なキャラクターの「素が出た」ようなブレを面白おかしく視聴していた。それだけに、杉山というキャラクターは最後、生き残った自分の強さを、何らかの形で誇示するのではないかと思っていた。

 だが杉山はそうしなかった。絶望的な敗北に打ちひしがれ、名声を捨て、夢想にすがって生きることを選んだ。それは「杉山徹心らしい」選択でも、「すぎるさんとして杉山にさせた」選択でもない、杉山自身の視点に立った決断だった。

 私はぞっとした。私がいままで「すぎるさん」の発露だと思って見ていたものは、すべて「杉山徹心」であったのではないか?

 彼の弱音や軽口の一つ一つに彼自身の血肉が通うとともに、杉山というキャラクターは深みを増していく。彼の人間離れして屈強な肉体に対して、彼の精神はあまりに脆い。

「インスタをやっている」という杉山の発言に「らしくない」とえべたんが返す一幕があった。フィクションとして見るならば、野蛮そうな男の世間擦れした一面を覗かせるコミカルな場面だ。だが現実ならどうなる?

 おそらく幾度となく、杉山はそういう言葉を聞いたはずだ。強さを求め、冒険を求め、人を倒し、動物を倒すたびに、彼はより人ならざることを求められるのだろう。それは本質的にはサーカスのライオンと同じだ。彼は「キャラ崩壊」したのではない。船の中で見せた尊大な態度こそが「演技」だったのだ。

 そもそも強さの証明として「全ての動物を殺す」という目標自体が完全に常軌を逸している。「モルモットも殺したの?」「モルモットから始めた。」などというセッション中の軽口も、今となっては空恐ろしいばかりだ。武井壮というモデルを想起させるゆえにみなそのパロディとしてこのキャラクターを受容していたが、「動物を倒すとしたら」のビッグマウスを吹聴することと、「動物を殺して強さを示す」ことは意味合いが全く違う。

 あらゆる格闘技のベルトを得た男が、ある時、それでも足りないと感じてモルモットをひねり殺す瞬間、果たしてどのような心情たり得るのか? どうやって彼はそこから、マッコウクジラに至る地上のあらゆる種を鏖殺するに至ったのか? まさしく狂気だ。堂々とCNNの取材を受けていたとしたら尚更だ。

 フィクションの霧が晴れた時、杉山の感情はあまりに残酷に人間的だ。彼は本当の意味でえべたんより虚栄心に溺れ、八木山より絶望し、志海より退屈している人間だ。

 最後の大氷壁を登る時も、洞窟からパラシュートで飛ぶ時も、常に杉山は精神的支柱としてメンバーの中にあった。それゆえに殊更、心折れたという末路に唐突さを感じてしまうのだろう。だが、彼は、えべたんにとって、八木山にとって、あるいは志海にとってさえ未だ「ただの山」であり続けるところの狂気山脈を唯一「人の理を外れた獣」と正しく認識したのだ。「殺せない」存在がいると、彼は心から理解してしまった。判定上は起こらなかったが、谷底でうごめくショゴスを見た時、杉山は狂気に落ちたのだろう。判定が生じなかったのは、それがもとから杉山を侵す狂気であったからに過ぎない。

 恐怖に震えるコージーに「いこうやぁ...」と泣きべそ混じりに手を差し伸べる杉山が本当の彼なのだ。彼は仲間との交流を楽しみ、失敗すればしょげ返る。こんな精神で獣という獣を殺していたのだから狂っているという他ない。あるいは、己の強さに尊大にふんぞり返るような人間であれば「全て殺す」ような偏執には取り憑かれなかったのではないか。彼の人好きのする振る舞いが、翻って彼の妄執と孤独を浮き彫りにしていく。

 杉山のタピオカ屋は、志海とコージーとともに飲むためのタピオカだ。ともに過ごす時間に未練があったのなら、八木山のように探しに向かうという選択もあったろう。二人のプロフィール画像だけ見せ、一人が心折れ、一人が友を探しに向かうという結末を聞かされたら、多くの人は逆を思い浮かべるのではなかろうか。杉山のこの「弱さ」を他の誰が表現できるだろうか? 彼をもっとも理解していたのは、間違いなくすぎるさんだろう。

 杉山徹心という男の異常にして激しく人間的な精神構造を浮き彫りにして見せたのは、すぎるさんのプレイヤーとしてあまりにも潔い結末語りだった。そこには、キャラクターに対する真摯で対等な愛が垣間見られる。思えばすぎるさんとは、ゲーム実況においてもそういう人だった。

 八木山とえべたんの物語は続く。だが、それはおそらく映画ならばダイジェスト加工されるような、恐らく平坦で、語れば蛇足となるような物語だ。

杉山は違う。彼にはCoCの主人公たる資格がある。八木山とえべたんがまた登場するとすれば、それは山に登っている場面だろう。杉山は違う。『奇妙な共闘』でも『毒入りスープ』でもいい。彼はいかなる形でも新たな狂気に満ちた冒険へと出発することができる。彼は本質的に人間社会を逸脱しており、そのモチベーションを抱えているからだ。彼は「山」ではなく「狂気」に愛され、見込まれたのだ。やがて精神をすり減らし、少しずつ世界から落ちこぼれていくのだろう。そうした想像を掻き立てるのは、最も優れたCoC探索者だ。

 私はすぎるさんという人物を見誤っていたかもしれない。ともすれば、本当に底知れない人格はすぎるさんなのではないか? という気がしている。まだTRPGに対しての緊張感や不慣れさが見える部分はあるが、それらを乗り越え、コツを掴んだ時、この人はとんでもないプレイヤーになるのではないか? という予感がある。キャラに自己投影するプレイヤーは多いが、自己投影というのは得てして自分から見た自分の虚像の再現である。自認していない己の人間性の深みをキャラクターに投影できるのは稀有な才能だ。

 すぎるさんには一度ナポリを離れ、全く別のプレイヤーとCoCをプレイしてみてほしい。願わくば、恐らくそんな機会は永遠に訪れないが、『青灰のスカウト』を遊んでみてほしいという願いがある。「性格」を超越した「精神」のロールプレイができる人は、そう多くはないはずだ。

 この文章はすべて、細切れにナポリ山脈を見た一視聴者の妄言に過ぎない。より深くナポリを知る人にとっては、訳知り顔の精神分析は不快であったかも知れない。だが、それに耐えてこの文章を読んでくださった方は、どうか一度「杉山徹心という人物の人格と狂気」に想いを馳せながら、ナポリ山脈を今一度視聴してみてほしい。

 杉山徹心とすぎるさんに心よりの敬意と感謝を。

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