見出し画像

ものを考えるとはどういうことなのか、四人の人類の教師たちが今私たちに教えることは数多くあると思います……──和辻哲郎『孔子』

「釈迦、孔子、ソクラテス、イエスの四人をあげて世界の四聖と呼ぶことは、だいぶ前からおこなわれている。たぶん明治時代の我が国の学者が言い出したことであろうと思うが……」
 と書き出されたこの本は、『孔子』についてだけの本ではありません。むしろその書名を越えて、この4人がなぜ「人類の教師」と呼ばれるようになったか、その条件とはなんだったのかなどを追求した、知見に満ちた論述、それも推理小説のようなものなのです。

「人類の教師」の教師の共通項として和辻哲郎さんはいくつかのことを提示しています。まず本人が生きていたときは、活動範囲がさほど広くなかったこと、弟子と呼ばれる人たちの数も結果して多くはなかったこと、さらにこう綴っています。
「天才と呼ばれている人々が生前に大衆の歓迎を受けたという例はむしろまれである。(略)人類の教師たり得るような智慧の深さや人格の偉大さは、大衆の眼につきやすいものではないのである。大衆の礼賛によって生前からその偉大さを確立した人々は、人類の教師ではなくして、むしろ「英雄」呼ばるべきものであろう。もちろんこの場合にも大衆の礼賛した人々がことごとく英雄となるのではない。大衆はしばしば案山子をも礼賛する」
 和辻哲郎さんのユーモアを感じるところでもあります。

 ではなぜ彼らが人類の教師になったのでしょうか。もちろん師の言行を広めた熱心な弟子の存在は必要です。でもそれでは不十分なのです。和辻哲郎さんは
「普遍性を得来たるためには(略)これらの偉大な教師を生んだ文化が、一つの全体としてあとから来る文化の模範となり教育者となるということである。それは逆に言えば、これらの古い文化が、その偉大な教師を生み出すとともにその絶頂に達してひとまず完結してしまったということを意味する」
 
 というとすぐに異論が出るかもしれません。「中国(和辻哲郎さんはシナと呼称していますが)は一貫しているのではないか」と。詳細は(おもしろい推理小説のネタばらしをしてはいけないのですから)ぜひ読んでいただきたいのですが
「同じシナの地域に起こった国であっても、秦漢と唐宋と明清とは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国と近代ヨーロッパ諸国とが相違するほどには相違しているのである」
 そして〈漢字〉の不可思議さに注目します。
「先秦と秦漢と唐宋と明清とが、一つの文化の異なった時代を示すかのごとくに考えられるのは、主として「漢字」という不思議な文字の様式に起因すると考えられる」
「漢字は直観性と抽象性との適度なる交錯によって(略)成功したものである。そうしてひとたびかかる文字が成立するとともに、それは音綴文字とははなはだしく異なった効用を発揮し始める。すなわち同一の文字が音声的に異なった言語を表現し得るということである」
 文字(書かれたもの)の同一性が文化圏の同一性を保証している(ようにみせている)というのです。最近でも橋爪大三郎さんや井沢元彦さんが著作のなかでこの漢字の特性と中国というものの成立に言及していますが、和辻哲郎さんは昭和一三年(1938年)に漢字の持つ威力を取り上げていたのです。

 フィロロギー(文献学)の方法での『論語』原典批判をのおこなった後半こそが手堅い論理で追求して書名の『孔子』にふさわしい内容ですが、でも前半の「人類の教師」をめぐる和辻哲郎さんの論理・文章にとても魅力を感じます。ものを考えるとはどういうことなのかを体現している本なのだと思います。

書誌:
書 名 孔子
著 者 和辻哲郎
出版社 岩波書店
初 版 1988年12月16日
レビュアー近況:昨日は虎党には辛い夜となりました。ただ、第7戦のチケットを確保していた野中、自軍を程々にしか信頼していない抑も其処に問題があったと、一夜明けて猛省中です。

[初出]講談社プロジェクトアマテラス「ふくほん(福本)」2014.10.31
http://p-amateras.com/threadview/?pid=207&bbsid=3202

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?