人と人が向き合うときに生じる感情のすべてが、凝縮されて描かれているのです──太宰治『駆け込み訴え』
息せき切って一人の男が飛び込んでくる。
「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かしておけねえ」
と始まる、独白体の短編小説です。
訴え出たのはユダ、訴えられたのはイエスです。ユダは思っていました、ほかの弟子に負けずに、いえそれ以上に献身的に主に仕えていたのに、少しも自分のことを考えてくれないと……。
「私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています」
このような思いも少しも(と、ユダは思っていました)主の心には届かず、ユダの気持ちは空転するばかり。主の言葉を実現するために人一倍苦労したというのに。主の気づかないところで(裏で)さんざん苦労して駆けずり回ったのに……。そんなユダの心にわき上がってきたのは嫉妬の思いでした。
「ああジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕い、きょうまでつき随って来たのに、私には一つの優しい言葉もくださらず、かえってあんな賤しい百姓女の身の上を、御頬を染めて迄かばっておやりなさった」
そしてその思いの行き着く果てがこの訴え出という行為だったのです。
「花は、しぼまぬうちにこそ、花である。美しい間に、剪らなければならぬ」
それゆえの、愛ゆえの告発なのだという。
「私の愛は純粋の愛だ。人に理解してもらう為の愛では無い。そんなさもしい愛では無いのだ。私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。けれども、この純粋の愛の貪慾のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない」
どの一語もムダの無い、リズム感あふれた文体で読ませる傑作だと思います。ユダはなぜ主に受け容れられなかったのか。それはユダが思っていうようには無償のものではなかったからかもしれません。あるいはどこかで現実に妥協(?)しているかのように主には思えたのかもしれません。
愛という世界の持っている業の深さを言っているのでしょうか。嫉妬という誰もが持ちうる心の陥穽の深さをいっているのでしょうか。主から何かの感謝、見返りのようなことを求めたのでしょうか……。ユダは自分では主への献身的な行動と愛情しかないと思っていたのです。
それとも、ユダの心が弱かったのでしょうか。けれど、もし弱さがあったとしてもそれはユダ自身には気づくことはできなかったのではないかと思います。
この小説には、人と人が向き合うときに生じる感情のすべてが、凝縮されて描かれているのではないかと思うのです。
太宰さんの作品の魅力のひとつに、読者個人に語りかけているように感じさせる語り口があります。とりわけ人の心情、その弱さを語るときには、読者に強い共感、共鳴を起こさせる魅力があります。
“きれいは汚い、汚いはきれい”というのはシェイクスピアの『マクベス』に出てくる魔女の言葉ですが、それにならって言えば“愛しいは憎らしい、憎いは愛しい”さらにいえば“弱いは強い、強いは弱い”といった人間の情愛の幅を描いたのがこの作品だと思います。そしてそれは太宰さんの作品にいろいろな形で変奏されているような気がします。(愛憎だけでなく、たとえば『右大臣実朝』の“明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ”という言葉もその変奏のひとつのようにすら思えるのです)
人は矛盾する、そのことから眼をそらさずに、またそれに居直ることを自分に許さずに矛盾の中で生きよ、と言っているように思います。
書誌:
書 名 駆け込み訴え(『斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス他七編』より)
著 者 太宰治
出版社 文藝春秋
初 版 2000年10月1日
レビュアー近況:有り難いのですが、年末のカレンダーのカンケイもあるのか、忘年会や納会のお誘いの日が集中しております。ダブルヘッダー、トリプルヘッダーを超えてクワドゥプルヘッダーの日も。そもそも業務が越年しそうなのですが……。
[初出]講談社プロジェクトアマテラス「ふくほん(福本)」2014.12.18
http://p-amateras.com/threadview/?pid=207&bbsid=3332
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