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変化をし続ける日本人の怨霊・霊魂観。それは日本文化の変化でもあり、そこから学べることは多いのです──山田雄司『怨霊とは何か』

 物語の世界では『源氏物語』の六条御息所が生霊、死霊として有名ですが、歴史上の怨霊としては、この本の副題になっている菅原道真、平将門、崇徳院が日本三大怨霊としてよく知られています。
「個人の病気や死、さらには天変地異や疫病などが発生した場合、その原因を怨霊に求めようとすることは、日本社会の基層に今でも脈々と流れている。相手側から弾圧されたりしたことにより、追い込まれて非業の死を遂げ、その後十分な供養がなされなかった霊魂は、死後に自己の宿願を叶えるために、自分を追い落とした人物に祟って出たり、さらには社会全体にも災害を発生させると考えられていた。それが「怨霊」と呼ばれる存在である」

 もちろん怨霊の存在の前には「霊魂」というものの存在が前提です。この霊魂というものは肉体から離れやすいものだ考えられていたようで、恋(六条御息所!)をしたり、クシャミ(!)をしたりしても飛び出していくと思われてました。霊魂が身近に感じられていたからこそ、なにか異常なことがあると霊魂が怨霊化して災いをもたらすと思われていたのです。そしてこの怨霊が日本文化に大きな意味をもたらせていることはよく知られていることだと思います。

 では、菅原道真、平将門、崇徳院が怨霊と化す非業の死というものはどのようなものだったのでしょうか。
 宇多天皇のもとで重用された菅原道真は醍醐天皇の世になると次第に天皇との関係が微妙になります。そして藤原時平による讒言により左遷されてしまいます。(左遷の原因には諸説あるようですが)道真は左遷の地、太宰府でも望郷の思いは抱きつつも「醍醐天皇を恨んだりするようなことはなく、仏教に帰依していた」のです。
 道真には讒訴という弾圧はあったものの非業の死というのとは少し違うのではないかと感じられます。道真の無念の思いが怨霊化したというより、道真を追い落とした藤原氏、醍醐天皇側に起きた不幸が道真の死に結びつけられて、道真の死を怨霊化し、それを鎮めるということになったのです。

 崇徳院はどうでしょう。山田さんは、保元の乱で破れ、讃岐に配流された崇徳院は「世のはかなさを感じ、極楽浄土を入定することを祈願する」日々を送っており、怨霊化というのとはかけ離れていたのではないかと言っています。ではなせ『保元物語』では「日本国ノ大悪魔」というような怨霊として崇徳院を描かれたのでしょうか。そこには承久の変で破れ隠岐へ配流された後鳥羽院の姿が重ねられていたからです。「後鳥羽院の怨霊が跳梁している時期でもあったので、これをもとに崇徳院怨霊の「虚像」が創造されたのではないだろうか」というのです。確かに、後鳥羽院の方が非業の死という言葉によりふさわしいように思えます。鎌倉幕府の倒幕を試みた後鳥羽院、歌人としても、また武人としても優れていたといわれた院であっただけに、敗北、配所での死は確かに非業の死というものを感じさせます。

 ではなぜ崇徳院が三大怨霊のひとつと考えられたのでしょうか。山田さんは『保元物語』『太平記』などの物語を通じて崇徳院の怨霊なるものが伝えられ、それがさらに江戸時代に『雨月物語』(上田秋成)、『椿説弓張月』(曲亭馬琴)などの物語によって広く民衆に知られていったからではないかといっています。

 平将門は太平洋戦争後も祟りをもたらした怨霊として知られています。非業の死といえば将門が一番ふさわしいように思えます。関東の自立を目指し、朝廷に反乱を起こし、一時は関東一円を支配下に収め、自ら新皇と称するまでになりました。けれどその翌年、藤原秀郷、平貞盛らの襲撃をうけ敗死してしまいます。
「さらに、首は京都にもたらされて東市でさらし首にされた。さらし首とされるのは、将門が史上初めてのようである」
 このように、志半ばで破れた将門の最期とその後の朝廷による処断を知るにつけても、将門の死が三大怨霊の中でもっとも非業の死と呼ばれるものではないかと思えます。
 ただ、ここで気になるのは将門の死の後に天変地異や疫病等があったのだろうかということです。道真の場合には讒訴した藤原時平の死、崇徳院(実際は怨霊と化してはいなかったようですが)の場合にはその後の平治の乱、平氏政権、鎌倉幕府の動乱が続きました。では将門の場合はどうでしょうか。同時期の藤原純友の乱でしょうか。将門の死後の天変地異というものは(もちろんあったかもしれませんが)、後世の『関八州繋馬』(近松門左衛門)、『善知鳥安方忠義伝』(山東京伝)などの物語によって江戸時代に広められていったのです。そこには江戸幕府(関東政権!)というものの成立によって民衆が、かつて関東の覇者であった将門へ関心を持ったのではないかと、山田さんはいっています。

 この三大怨霊のすべてをとりあげている本があります。『太平記』です。江戸時代に大きく物語化された崇徳院も将門も、さらに道真もその中で怨霊として取り上げられています。『太平記』は日本の怨霊(物語)の大きな水源なのかもしれません。

 山田さんの怨霊論は過去の物語分析から「怨親平等」へと進んでいきます。「怨親平等」とは「戦闘でなくなった後には敵も味方もなく成仏するよう祈願する」というところから生まれた思想です。
「怨親平等の思想は、古代以来怨霊鎮魂の思想と重なり合いながら意識されてきた。しかし、怨霊という考え方が次第に薄くなっていく一方で、戦乱等で亡くなった人々の慰霊のあり方として、怨親平等思想が日本人の思想として優位を占めてきたと結論づけることができる。この考え方は敵は死んでも敵であり、憎み続けるべき存在だとみなす思考とは相異なるものである」

 怨親平等から慰霊へというように日本人の怨霊・霊魂観は変化をし続けています。かつてはさまざまな物語を生み出した怨霊、そこには世情・世相を映し出したものが多かったと思います。だからこそ町民文化が生まれた江戸時代にさまざまな怨霊が描かれたのではないでしょうか。時には幽霊として描かれて怨霊は生きていたのです。
「怨霊は単に怖ろしい存在であるだけでなく、怨霊を認識することによって、ある事態が一方的に進みすぎないようにバランスを保つ役割も果たしていたと指摘することができよう。われわれはさまざまな霊に取り囲まれて調和を保って暮らしてきた日本人のあり方をもう一度考える必要があるのではないだろうか」
 先人たちが怨霊・霊魂に込めたこと、怨霊と鎮魂いう事態はなぜ起きたのか、どのように解決しようとしたのか、残された物語を通して私たちが学ぶことは多いのかもしれません。生きている文化とはなんであったのかを考えさせる一冊でした。

書誌:
書 名 怨霊とは何か  菅原道真・平将門・崇徳院
著 者 山田雄司 
出版社 中央公論新社
初 版 2014年8月25日
レビュアー近況:プロ野球CS、ホークスvs.ファイターズを出張中だったのでラジオ実況を聴いていましたが、スマホアプリで福岡と札幌の放送局の放送をザッピング。虎党の野中がいつも聴いてる大阪の放送局もビックリのワンサイド実況&解説が、とても面白かったです。

[初出]講談社プロジェクトアマテラス「ふくほん(福本)」2014.10.21
http://p-amateras.com/threadview/?pid=207&bbsid=3170

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