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共生を喪失した私たちに植えつけられた〈個性という牢獄〉──養老孟司『「自分」の壁』

「私がずっと繰り返し主張している「参勤交代」は、ビッグピクチャー(大きな構図のこと)の一つです。都市に住む人に、年間数か月は田舎に住むことを義務付ける。まずは官僚から実践させる。そうすれば日本は確実に変わります」
 政治(社会)的な実践方法のひとつとして養老さんが提唱しているものです。どこかである批評家が次のようなことをいっていたのを思い出しました。それは、退官(退職)した大学教授を少年少女(幼児)教育の現場に行かせるべきだ、とか大学教授に一大学だけでなく一定期間他の大学(国公立私立の枠を超えて)で教壇に立たせるべきではないか、という提案でした(正確ではないかもしれませんが)。

 これらにはなにか共通したものがあるように思います。それは〈共生〉といったものではないでしょうか。なんだそんなことかと思われるかもしれませんが、このことが本当に生かされているのでしょうか。養老さんはこの共生をいうものがなおざりにされているのではないかと指摘しています。なぜそうなってしまったのか、その原因は「自分」というものを重要視する傾向があったからではないか……と。

「これは欧米からの影響によるところが大きいでしょう。その結果、個々人の「個性」「独創性」がさんざん言われるようになったのです」
 でもそれらが本当に大切なものなのでしょうか。養老さんは根本的な疑問を提起します。
「生物学的に見ても「自分」などというものは、地図中の矢印に過ぎない。そして社会的に見ても、日本において「自分」を立てることが、そう重要だとも思えない。このように考えると、戦後、私たち日本人はずいぶん無駄なことをしてきたのではないか、と思えてしまうのです。 「個性を伸ばせ」「自己を確立せよ」といった教育は、若い人に無理を要求してきただけなのではないでしょうか。身の丈に合わないことを強いているのですから、結果が良くなるはずもありません。 それよりは世間と折り合うことの大切さを教えたほうが、はるかにましではないでしょうか」

 養老さんのいうとおり、「個性」というものは目的にするものではなくて〈結果〉として自ずと身につくものなのだと思います。そしてこの個性偏重(といっていいと思います)がもたらしたものが共生の喪失であり、今の日本の姿なのです。

 個性を偏重することには、どこか他者との違いを強調し、またしばしば不必要できつい競争を強いることにもつながっている部分もあるように思えるのです。しかも意識は〈えこひいき〉するとも……
「「自分」というものを確固としたもの、世界と切り離されたものとして、立てれば立てるほど、そこから出て行ったものに対しては、マイナスの感情を抱くようになる。「えこひいき」すればするほど、出て行ったものは強いマイナスの価値を持つようになるのです」
 自分の確立がかえって世界からの疎外をもたらすことになりかねないのです。養老さんはそんな日本人にある価値の見直しを提言します。それは〈親孝行〉というものの再発見です。もちろん古典的な家族制度の復活ではありません。
「親孝行は、子どもに対して「お前はお前だけのものじゃないよ」ということを実は教えていたのです」

 この〈親孝行〉の再発見から夏目漱石のいわゆる〈則天去私〉までの養老さんの話の進め方にはなにかすごみのようなものさえ感じさせます。そのすごみは「なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すことになります。しかし、そうやって自分で育ててきた感覚のことを、「自信」というのです」 という言葉にいたるまで続いていきます。

 そして……、
「言いたいことをずいぶん言ったので、当分、こういう本はつくらないでしょう」
 という言葉で結ばれたこの本は、私たちにいま一度〈良識〉というものがなんなのか、そしてそのありようを考えさえてくれるものではないかと思わせるものでした。

書誌
書 名 「自分」の壁
著 者 養老孟司
出版社 新潮社 
初 版 2014年6月20日
レビュアー近況:仕事場至近のラーメン店、半年に一度だけ無性に食べたくなるときが今日来てしまい、校了渦中昼メシに。しかし、「本日は人手不足のため18:00よりオープンします」の貼紙。こうやってじらされると、更に想いが募るばかりデス。

[初出]講談社プロジェクトアマテラス「ふくほん(福本)」2014.09.29
http://p-amateras.com/threadview/?pid=207&bbsid=3102

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