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「抽象的な行為」に陥ってしまう人間というものが持っている悲喜劇を活写──町田康『告白』

言葉と行動が一致しないというのはよくあることですが、この場合、言葉は思いと同一なのが前提でしょう。ところがこの物語の主人公・熊太郎は、思いと言葉が一致しないことに困惑しながら生きているのです。
「俺の思弁というのは出口のない建物に閉じ込められている人のようなもので建物のなかをうろつき回るしかない。つまり思いが言葉になっていないということで、俺が思っていること考えていることは村の人らには絶対に伝わらないと言うことだ」

そのため村人からはうとまれ、バカにされ、いやおうもなく無頼の道へと歩んでしまう。(そこにはもう一つのトラウマになる少年期の出来事も原因しているのですが)といっても真に(?)無頼というわけでもなく、つい出してしまう侠気を利用され、悪賢い村人に利用されてしまう。
その熊太郎が二人の運命の人と出会います。一人は生涯の弟分となり生死を共にする弥太郎です。
「子供の時分から思いと言葉が一筋につながらぬという特殊の事情が主たる理由であるのに弥太郎にだけは忌憚なく思ったことを話せた」
弥太郎との兄弟の契りは村社会全体に対抗できるような強さを持つものとして描かれています。
そしてもう一人は熊太郎の妻(といっても内縁のようですが)になる縫でした。縫は熊太郎にとって純粋さの象徴でした。熊太郎のすべてをそのまま受け容れ、家族という村社会とは違った共同性(それは熊太郎にとって安心であり穏やかさなどをもたらすものであったはずです)を作り上げられると熊太郎は思っていたのです。、
「それはまあ俺が慌てもので思慮に欠けるからだからだ、しかしそれは俺が元々馬鹿だからではなく、対人的にいつも黙っているからだと思う。つまり自分の言葉は相手に通じていないのではないか。相手は本当は別のことを言いたいのではないか、なんて考えているから、ついまともな判断ができなくなって、気がついたら俺が損な役割を負わされている。(中略)自分の行動に論理的な整合性を求めすぎるのだ。みなそんなことはないがしろにして楽に生きている。けど俺は苦しく生きている」
縫は自意識というには奇妙なこんな熊太郎の内面世界を安定させるものだったはずでした。けれど縫の純粋さは熊太郎だけでなくすべての男を受け容れるかのようなもの、放埒さだったのです。それを知ったとき悲劇が始まりました。

この悲劇を町田さんは軽妙な河内弁を駆使して、重苦しくなることなく悠々と(と思えるように)語り聞かせてくれます。またミュージシャンらしく「ギターを弾くカルロス・サンタナのような顔をして」というような比喩をはじめとしてリズムあふれる文体(まさしく河内弁!)でこの長編小説を織り上げています。
この長編小説は河内音頭の「河内十人斬り」をもとにしていますが、大量殺人事件を起こさざるを得なかった熊太郎の情念をみごとに描いています。実際の事件がどうであったかはわかりません、が町田さんが描いた熊太郎は「抽象的な行為」に陥ってしまう人間というものが持っている悲喜劇を描いています。この「抽象的な行為」は熊太郎独自のものではありません。誰しもがある瞬間に抱いてしまうものなのではないでしょうか。
現実というものに手がかりを感じることができないことはしばしばあることだと思います。その時には主体といったものは喪失され行き場のない情念だけが残されるのではないでしょうか。人はしばしば自分では望まない選択を強いられ、意図せぬ、予期せぬ事柄を引き起こし、また巻き込まれる、それが人間のありようなのかもしれません。

作中でしばしば使われる「××なのだけれども」という言葉は現実を(状況を)知り、現実の堅さを感じながらもその状況に対する違和をいっているように思えます。そしてこの言葉を発したときは、私たちが宙づりにされ、なにか「抽象的な存在」になっている瞬間なのではないかと思いました。私たちにとって熊太郎の世界はそんなに遠い世界ではないのです。

書誌:
書 名 告白
著 者 町田康
出版社 中央公論新社
初 版 2005年2月25日
レビュアー近況:予備校時代の生物のセンセイから「面白いゾ」と、LINEで本の推挙が。時宜と野中の趣向を鑑みた絶妙のチョイスに「流石師匠」と感激も、相方に頼りきりで全然レビュー書いてない当方への戒めと省み、業務合間に猛読中です(近日公開、できるかな? アカン)。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.01.21
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=2649

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