見出し画像

〈空気〉という壁が私たちの前をふさいでくる、時に常識という仮面を付けて──佐藤直樹『世間の目』

 1998年から活動している日本世間学会の呼びかけ人のひとり、佐藤直樹さんの世間学概論というものだと思います。世間などというとなにか古い世界のように思う人もいるかもしれません。でも昨年来、問題視されているLINEいじめに代表されるSNSいじめも残念(!)なことにこの世間というものがもたらしたものかもしれません。

 かつて山本七平さんは『空気の研究』を著し、日本人の縛る、ある種の絶対的権威のようなものとして〈空気〉という怪物を取りあげました。この怪物は今でも〈空気がよめない云々〉という形で私たちを縛っています。

 佐藤直樹さんのいう〈世間〉とはこの〈空気〉がもっと実体化し、権力的になったもののことではないかと思います。なぜこのようなものが生まれたのか。
「西欧の学問がよってたつ基盤(社会)と、わが国の学問がよってたつ基盤(世間)がまったくちがうのではないか」
 という疑問から佐藤直樹さんは〈世間〉の現象の追求とともに私たちに大きな影響をあたえている〈世間〉の解明にむかっていきます。

 そして精神医学者の木村敏さんの考えを引きながら
「西欧人は個人と個人があってしかるのちに人間関係ができるが、日本人のばあいまず人間関係としての〈間〉が生じ、個人はそこから析出されるものにすぎないという。これは自己責任や自己決定ということが、個人からではなく、人と人の〈間〉から発生するということ」
 が〈世間〉を生みだしたのだというのです。

 ここで生まれた、まるで〈結界〉とでもいうような〈世間〉は公共性とはなんら関係がないものです。公共性はまず個人が成立して成り立つものですが、〈世間という結界〉には排除の論理がまず働いています。そこでは個人は後から許容された範囲でしか存在できないのです。しかも〈結界=権力〉である〈世間〉は
「具体的な人間のことではない。〈世間〉は、あくまでも私たちの頭のなかにかたちづくられた共同の観念、つまり一種の共同幻想なのである」
 というやっかいなものなのです。それは時には互恵的=相互扶助的にも現れますし、時には全体性(という抽象世界)の仮面を被って、私たち自身の(頼んでもいないのに)庇護者のようにも現れます。

 私たちは時に不快や疑問に感じながらも、従うのが自然だとでもいうように強いてくるもの、それが〈世間〉なのです。しかも〈世間〉は一様ではありません。入れ子構造でもあるかのように〈狭い世間〉〈広い世間〉というように存在しているのです。そしてそれはSNS社会になってさらに激しくいじめなどの差別(異物排除)を生んでいるのではないでしょうか。佐藤直樹さんの〈世間との格闘記〉としてもおもしろい一冊です。この本が書かれてから10年、〈世間〉の壁はまだ崩れそうにありません。

書誌:
書 名 世間の目 なぜ渡る世間は「鬼ばかり」なのか
著 者 佐藤直樹
出版社 光文社
初 版 2004年4月30日
レビュアー近況:飛び石連休中日、野中は日帰り出張で京都。お打ち合わせを終え、「なんぞ雅なもん」を(?)と過分にも湯葉やお麩の精進料理ランチに、挑戦。お店に向かう途中で通ったとんかつ屋さんに、往路も気になっている自分には、ホント過分でした。

[初出]講談社プロジェクトアマテラス「ふくほん(福本)」2014.09.22
http://p-amateras.com/threadview/?pid=207&bbsid=3082

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?