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美しい心とはなにか……幸福とはなにか……そして神とは何か……根源的な問いがここにはあります──オスカー・ワイルド『幸福な王子』

「生きて人間の心をもっていたころは、ぼく涙の味などしらなかった。(略)廷臣たちからは幸福の王子さまと呼ばれていたし、ほんとうに、ぼくは幸福だった。もし快楽が幸福であるとすればね。そんなふうにぼくは生きて、そんなふうに死んでいったの。ところが死んだ今となって、みんなにこんな高いところにのせられたものだから、ぼくは自分の町の醜さやみじめさがすっかりみえてしまうのだ。そしてぼくの心臓は鉛でできてるくせに、泣かずにはいられないのだよ」
『幸せな王子』が私たちに感じさせる王子とつばめの献身や自己犠牲、その美しさ、その哀しさはいうまでもありません。でもこの物語はそれだけではないように思えるのです。物語のあちこちに〈不可能性〉とでもいうしかないものが感じられるのです。

 どんな〈不可能性〉がここにはあるのでしょうか。思いつくまま上げてみると
・王子が町の不幸な人びとを救いたくても自分では文字通り動くことができない。
そしてその動けない王子の代わりになったつばめはというと……。
・土から動けない葦に恋して、仲間と一緒にエジプト行きができない。
・王子の像を見て「天使みたい」という慈善学校の生徒に「天使なんか見たこともないくせに」という数学の先生。
・王子の届けたプレゼントをその価値に気づかず「まあ、きれいなガラス玉だこと」といってしまうマッチ売りの少女。
・「もはや王子は美しくないからもはや無用の長物にすぎない」と王子の価値に気づけない大学の美術(!)教授。
・「いちばん尊いものをふたつもっておいで」と天使に命じる神さま。そして神さまはこう言うのです。「わたしの天国の庭で、この小鳥にいついつまでも歌をうたわせ、わたしの黄金の都で、幸福の王子にわたしをほめたたえさせるつもりだから」と……。

 なぜ褒め称えるのが王子自身ではないのでしょうか……。ワイルドは神さまは褒め称える以外にはありえないものなのだとでもいっているように聞こえてくるのです。

 こんな疑問に答えるような吉田健一さんのワイルド論の言葉があります。
「英国では近代はワイルドから始る」
「近代といふ一時代の性格を説明することから始めなければならない。そしてそれは混亂であると言へる」
「近代になつて、そこには秩序の他は凡てのものがあつた。秩序、或はそれまでのあつた筈の神はなかつたとも言へる」

 もしかして、それゆえに慈善学校の生徒は、数学の先生の嫌みな反応に反論するのです「でも見たことがあるんです、夢の中で」と……。

 ワイルドはこんなふうにいっているように思えるのです。献身や自己犠牲は誰に認められなくても(全知全能の神であっても)、それゆえにこそかえって素晴らしく、美しく、そして気高く、どのような炎にも溶かされることのない精神であると……。

 天国に届けられた王子の心には何が残っていたのでしょうか。それは、人びとを幸せにしたという満足感であるわけがありません。きっと自分の力の限界、無力さ、生きていた時に町の人びとの不幸に気づかない自分への後悔があったように思えてならないのです。そして、その心こそが美しいものである……とワイルドは言っているのではないでしょうか。

書誌:
書 名 幸福な王子
著 者 オスカー・ワイルド
訳 者 西村孝次
出版社 新潮社 
初 版 1968年1月17日
レビュアー近況:今年初めて知りましたが「キューピー3分クッキング」、クリスマスは献立は勿論、オープニングテーマもクリスマス仕様なんですね。ヴォーカルが入るヴァージョンを、初めて聴きました。メリークリスマス。

[初出]講談社プロジェクトアマテラス「ふくほん(福本)」2014.12.25
http://p-amateras.com/threadview/?pid=207&bbsid=3348


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