時流に流されることなく自らを鍛え抜いた叡智であり、良識(コモンセンス)というものがここにはあります。そしてこのような人を持ったことを私たちはもっと誇っていいのではないでしょうか──石橋湛山『湛山回想』
この人が病に倒れずに首相を続けていたら現在の日本は大きく変わっていたのではないでしょうか。少なくとも岸信介さんが首相になるのはもっと遅れたでしょうしたでしょうし、60年安保もずいぶんと様相が変わっていたでしょう。(石橋さんは安保採決に議決欠席をしました)池田勇人さん、佐藤栄作さんの政権もどうなっていたかわかりません。
歴史にイフは禁物ですがこの人の下で日本の進路が決まっていたらと思う人は結構多いのではないでしょうか。経済ジャーナリス出身ですから、高度経済成長も池田元首相に代わって遂行したと思います。また親中派として知られていたのですから日中関係も変わっていたのではないかと思います。(1959年に訪中して周恩来氏と会見した時には日中米ソ平和同盟を提案し、周恩来氏は乗り気になったそうです。もちろんこの時にはまだ中国は国際社会に(国際連合に)認められていませんでした)
ちなみに石橋さんが首相に就任した時に五つの誓いをしたそうです。それは、
1 国会運営の正常化
2 正解および官界の粛正
3 雇用の増大・生産の増加
4 福祉国家の建設
5 世界平和の確立
この五つが少しも古びていないのは石橋さんが優れていたのか、私たちが選んでいる政治家に問題があるのでしょうか……。
この本はまだ政権につく前の昭和26年に刊行されたものですから、岸信介さんとの政権争いのことや中国とのことは出てきません。そのかわり、というのも変ですが石橋湛山さんがなにを考えてきたのか、いわば石橋湛山ができるまでを語っているように思います。
石橋さんはまずなによりも経済ジャーナリストとして、また根っからの自由主義者として知られています。また戦前では大陸への膨張政策を走っていた日本政府に反対し「小日本主義」を主張したことで知られています。そこでは満州、朝鮮、台湾のすべての植民地を放棄し今でいう民族自決的な考えを展開しています。政府・軍部が強硬に主張する「大日本主義」がいかに無謀であるかということばかりでなく、そもそも経済的に無価値であるということをはっきりと主張したのです。
この小日本主義はきわめて重要な主張だったと思います。けれど日本はその道を歩みませんでした。軍部が暴走したということは確かにあります。近衛首相に象徴されるように当時の指導者が弱腰であったこともあるでしょう。石橋さんはこの軍部の台頭を許したものをこう指摘しています。
「日本も、また、軍部に亡国の一歩手前まで追いやられた。かように考えると、日本を今日の悲哀に多々占めたのは、実に昭和五年の金解禁だったといえるのである」
実体経済に合わせて通貨価値を落とした上での復帰(新平価解禁)ではなく旧平価で金本位制復帰したことが原因で金融恐慌さらされていた日本に経済の混乱に拍車をかけ国力を疲弊して、結果軍部の台頭を許したということだったのではないでしょうか。
軍隊といえば石橋さんの戦争観も興味深いものです。徴兵され、実弾訓練での体験から
「自分が戦争に行くのがこわいから、あるいは自分の子供や身内を戦争で死なすのはいやだから、戦争に反対だなどという議論は、もちろんそれだけでは議論にならない。しかしもし世の人が皆戦争をさように身近に考えたら、軽率な戦争論は跡を絶つに違いないと、当時私は痛切に感じた」
こういう人をリアリストというのではないでしょうか。実弾を身の回りの感じたあとでの言葉には重みがあります。(それ以外の軍隊体験も興味深いものがこの本では多く語られています)
石橋さんのリアリスト振りは敗直後の経済について言っているこのようなところにも現れているのではないでしょうか。
「私は、このインフレ必至論に対しては、終戦直後から反対した。戦後の日本経済で恐るべきは、むしろインフレではなく、生産が止まり、多量の失業者を発生させるデフレ的傾向である」
「私は、もし日本に、ほんとうに恐るべきインフレが起るとすれば、その原因は、第一次世界戦後のドイツのそれと同様に、賠償の外にはないと考えた。終戦処理費は、一種の賠償に等しい性質を持つものだから、その減少を極力願ったのことは、もちろんである。だが、それによって、司令部から、忌まれるようなことをした覚えはない」
後半は公職追放されたことについて触れた個所ですが実に正直な感想だと思います。(この回想録は公職追放が解除された時に書き始められてものです)
また、戦後最大の改革といえる農地改革についてもその意義を認めつつもその不十分さをつき
「日本の農家を二分の一ないし三分の一に減じ、その平均耕作面積を二倍ないし三倍にすべしと唱えていた」
と論じています。つまり小作人をそのまま零細自作人にしたところでとどまってしまったのが農地改革というものだったというのです。
冷静に自分自身を見つめ綴ったこの本はさまざまな叡智に満ちているように思います。
時流に流されることなく自らを鍛え抜いた叡智であり、良識(コモンセンス)というものがここにはあります。そしてこのような人を持ったことを私たちはもっと誇っていいのではないかと思います。手本としても。
書誌:
書 名 湛山回想
著 者 石橋湛山
出版社 岩波書店
初 版 1985年11月18日
レビュアー近況:こういうのは続くもので、今日も家電の修理に業務合間、量販店へ。受付待ちのカウンター、ふと見るとルービックキューブが。「日本記録が云々、世界記録が云々」とPOPが添えられていましたが、野中は数分頑張っても一面すら揃えられませんでした。涙。
[初出]講談社プロジェクトアマテラス「ふくほん(福本)」2014.12.10
http://p-amateras.com/threadview/?pid=207&bbsid=3310
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