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しびれ冷めやらぬ感動を頂いた人生で初めての経験。


noteを始めさせて頂き、もう少しで半年になります。

いまからして思えば「これは奇跡的についていた」と思うわけですが、note殿からセレクト初期フォロー先10選を頂いた、

そのお一方が森野二コラ様です。

noteをはじめたばかりでカラスの写真についてコメントを下さったものの「コメントがつくわけない」という思い込みで失礼なことをしてしまいましたが気づくのがかなり遅かったのにもかかわらず、その後も寛容なお心で交流を下さっていくことになります。当初は僭越ながら「なんて多彩な方なんだ」「あれも、これも、それにしてもすごい才能だ」「ジャンル問わず、このように高度になんでもできる人がこの世にはいるのか」という印象でした。

極々一例ながら、はりがねを曲げて、ライティングと写真までこなし、それを「えっこれって元々ははりがねだよね?」と確認のために思うほど最終作品にまで整え仕上げられる才能と感性に溢れ、


と思えば、曼荼羅シリーズ、植物写真シリーズに目が行けばうなるほどの作品でいらして、なんとさらには作曲までもこなされ、これはもう

「いったいどうなっているんだ」「これらが一人の方から生まれ発せられている」のかと驚愕に思うことの連続です。


ときおり目にする俳句に無意識に魅了されていったのだと思いますが、気が付くとある日「森野二コラ様がやっていらっしゃる俳句素敵だな。私も始めてみよう」と明確に思った日がありまして、影響を頂きました。

SNSにさらっと俳句を記したことで、他者へ影響を与えていくあたりに、この方の凄味その一つがあろうかと宇宙の彼方を想像するのと同じように思い馳せてみるわけですが、

中年の者にこうして人生はじめての俳句を認めさせて頂く機会となっていきます。二ヵ月前、俳句処女作です。


そして、です。

俳句を始めてみて一か月ほどして、私は心が痺れるほどの経験を頂きます。

その日は突然来ました。こちらのコメント欄、引用失礼致しつつ『俳句の本義は「挨拶」とも申します。』と、俳句のご説明を下さるのかと思ったら、そうではなく『感謝して一句贈らせてください。』と続くわけです。まずここの下りからして「なんてすごい方だ」とノックアウトですが、そうして俳句でのご挨拶を賜りました。私は痺れました。本当に鳥肌が立つほどに、とにかく痺れました。そのまま瞳孔が開きっぱなしになるのかと思うほど目が覚めたような気持でした。一生忘れられない有難い珠玉の一句を賜りました。あれから一か月以上経ちますが、いまだ感動が一切冷めません。そしてその一句を少しずつ意味を考えてみるという楽しみも頂きました。


たとえばこちらは、一句は無論素晴らしいとして、私が感想を述べるレベルにありませんので、それぞれ感じて頂くとして、まずこの絵が目に入りそして一句を拝読し、そしてその解説や語彙、言葉尻一つにまた高く帯びた精神性を感じ何度も読み返しながら理解に努め勉強させて頂きながら同時にしびれ、勝手ながらの余計な想像に僭越なところ「これだけの精神性であれば周囲へ理解されないことも多く、その点凡人には計り知れないご苦労もあるのではないか」と思っていると、奥様との素敵なやり取りが記されていてこれも勝手に安堵のストーリーとなり、そして最後にもう一度冒頭の水墨画のような写真のような青鷹の目をしみじみ見ると、それはもうノックアウトなのです。再度一句を拝読してまたひれ伏すわけです。


森野二コラ様は気品溢れる紳士の方で、かような内面性を多分に感じずにはいられませんが、

個性を取り除き一般化し、あえて客観的に平たく表させてもらえば「あったことない方が、あったことないおじさんをたった一句で感動させている」という図式です。このようなことを聞いたこともない、と思わずにはいられません。

この体験はリアルで周囲の方々へ何度も伝えるほど、強烈な経験であり、

会ったこともない相手に対して、たった17文字で鮮烈に感動までさせる「俳句」というものの素晴らしさも体現しながらご教示を頂きつつ、

そしてその粋さ、人間性、お人柄、すべてにひれ伏す次第となっていくわけです。そのような経験を頂けるとは、なんと有難いことなのでしょうか。

この感動はディズニーランドでも、アメリカ西海岸で作られる映画でも、味わえずかつ私にとってはその瞬間の衝撃、感動だけでなく褪せることなき余韻も合わせ、それらを凌駕し、つまりは広大な敷地を有するエンターテインメントよりも、鬼才集まる映像と音の作品2時間よりも、たった17文字のほうが感動させることがあるのだという、換言すれば今まで生きてきた40余年は何だったのかとも思うわけでありまして、これらなんたる強烈な体験なのかと毎日思い味わうことになります。

俳句一つでこれだけ人を感動させ、しびれさせる森野二コラ様の、これはもう天空にまで届くのではないかという精神性をじわじわ思っていくことになります。

そうして毎々の作品や文章、コメントからもにじみ出て来る「これだけの精神性を持った方がこの世にいるのか」という私の内心が積み重ねられていくことになります。

俳句の初心者にもまだなっていない段階ですが、私の句は凡作にもならぬさらには駄作、愚作にもならぬ「作」を付ける手前の駄愚で句と呼ぶにもはばかれますが、実はお恥ずかしながらこの一句すら一時間半かかっています。で、クオリティがこれなのでまた泣けて来るわけです。質はともかく私は文章を書くのはそこそこ速くかつ量もいくらでも記せるほうだと認識してきているのですが、そのような者がたった17文字生み出すのに毎々のように1時間かかって、うっすらと「17文字で表すという美学」というものを感じ始め目指してみたいと思いつつ、結局混乱し妥協して着地している段階です。これがまた凡人にとっては成長に必要かつ有用な段階であるとも認識し、このような体験も下さっており、

あるいは、季語を調べたり、知らない語彙に出会ったり、それらも大変刺激的で楽しい中に、音、リズム、そして意味内容、読んで下さる相手の想像力を掻き立てられるのかを考えながら、この生みの苦しみを味わうのがまた痛快で、加えて当初自分が思っていたものとはまったく異なる句に苦しんでいる中で変遷していくことが多く、俳句が内面を引き出しに来るのか、それも俳句の不思議に感じているところです。

ここで表敬感謝としての一句を詠めれば多少は締まるのかもしれませんが、まだまだの身として自重をしつつ、このような機会と体験を下さった森野二コラ様へ深謝し、厚く御礼申し上げる次第です。

率直に、森野二コラ様を尊敬し、男惚れもさせて頂きつつ、俳句のお師匠様に留まらず、勝手ながらに精神性の憧れともなっております。今後ともご指導のほど頂きたく、お願い申し上げます。







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