若いな、とか、ダサいな、とか、嫌だな、って感じすぎる年頃

「神様を待っている」

を読了後、ある女優が寄せた書評コメントを読んで、後味に、苦虫なんて表現ではおさまりもしない、腐ったタコを噛み切る時の感触のような、捨て忘れていた生ゴミの匂いが2泊3日の旅行からの帰宅後に香る玄関の湿気のような、貧乏臭いSHEINの靴にDARICHのペラペラの服とLADY DIORを合わせている若い女を田園都市線で見かけた時の悲しさのような、通称“嫌な気分”が余計に増してしまった。

それは、久しぶりに読み終わった本がドストエフスキーや、中島敦や谷崎でも学問書でもなく、貧困女性をテーマにしたそれが、リアリスティックな割には、共感ができないエンタメフィクションだったこと、そして、この読了感を知っていながら“難しい文学を読むという知的なエクササイズ”から逃げることを選んだ、私のふやけた脳みそへの“嫌な気持ち”でもあった。脳のシワが減ったことで、潜在的に難しい思考から逃げたのか、自分より不幸でバカな女の物語を読むことで何かしらの陳腐な優越に浸りたかったのかは、感知できない。

とにかく、こうした不幸な女の話を読んだ後には、悲惨な家庭環境の中、虐待・性加害を受けて、結局のところ夜の街へのけしこんで行く女が、この世のマジョリティのように感じてしまう。

実際のところ、体を売ることを選んでいなくても、女性性を売って、女子大生人生のスタートにはふさわしい真っ当な大学の近隣に位置するワンルーム5万円代のアパートから、いつのまにか代官山なり麻布なりに、彼氏やパパが敷金も礼金も払った部屋へと引っ越していく女を大勢見てきた身としては、セックスを売るよりも、男の劣情を“すんでギリギリ”の境界性まで煽って金銭やコネを得る輩の方が、惨めに思える。知的労働や魅力では、男にも勝てず、アカデミアやビジネスの世界で生きる“知”を用いて食べていく女にも勝てず、はたまたエイジズムとセクシズムの奴隷になりながら、女としての賞味期限を表面的な膣ドカタとボトックスで延長しようとしている様は、痛々しく、見窄らしい。本当の貧しさは、格好ではなく、金をかける部分を見極められないことと、品がないことだ。体を売っても、女としてのプライドを売っても、品をなくし、心が傷つくことは避けられない。ただ、その傷に精液をまきちらして肉欲を満たしたい連中と、売女との間にWin-winにも見えてしまうようなビジネスが成り立っていることが、ただただ恐ろしい。

恋愛や性欲に溺れる

のは、怠惰と不幸の象徴だ。金はあっても、不幸な港区の“経営者”とやらは、成功者ではなく、捕食者だ。これまで自己生成できず、他者からも与えられてこなかった愛を求めて、20代前後の女を食い漁り、納税対象になるはずもないタク代を払い「自分は愛されていないまま死ぬんだ」と自分の一連の行動が代弁して愛着障害を表層化していることにも気づかない。もし気づいても、代替策はもう、ない。支配と愛情を履き違えたまま、豪華な誕生日パーティーの裏で、もっぱら経営者交流会と化すであろう未来の葬式を待つ。

女児の子供がいても、どれだけ嫁を愛していても、女を消費する飲み会が、女たちにとっての“機会”であるかのように、続いていく。倫理も、道徳もなくたって、そこで金が動けばいい。

これだから、東京は嫌い

なんだ。父は東京と折り合いをつけることよりも、東京に飲み込まれて、その虚しい宗教の一員になることを選んだ。父親という役割や、キャラクターや、義務よりも、子供よりも、事業者としての成功や名声やプライドを選んだ。その取捨選択を、私は娘として一切肯定できず、今だに凹んだままの頭蓋骨や、抉れた皮膚の跡を時折、セックスの最中に思い出して、男性に対して“理不尽で主語が大きい嫌悪感”を感じるけれど、事業者の端くれになった今では、同じ選択をするかもしれない、とも思う。

腐ったれた会食で以前、キャバ嬢がバカみたいに稼いですごいという話になったが、私が「すごいけど、限界ありますよね。所詮箱がでかい個人事業主なんだから。」と発言した瞬間に、空気の硬直を感じた。こいつ、若い癖に生意気に、、という苛立ちなのか、やるな、、という納得なのかはわからないし、判断もしたくないけれど、同調する目線は汲み取れた。

プレイヤーと管理者は、根本的な思考のプロセスに、埋められない差分がある。死ぬほど仕事をして、大学一年生から二年間。なんの学閥も、コネも、自身の女性性にも、実家の太さにも頼らずに、一から資本金をつぎ込んで、誰の顔色も伺わずに悠々自適に25歳までは暮らせるであろう基盤がやっとできた。いつ親に勘当されても、スタッフが全員辞めても、友達がいなくなっても、困らずに食っていけ、社会保険料が払えるだろう。同い年で収入差を妬むものも、縁が切れた友達も、裏切られた近親者も、全て養分にして、生き恥を忍んで働いた。

私が、この世界で女というだけで強いられた苦労と同じぐらい、それ以上に、在日朝鮮人の父が大阪から上京して財をなすことは、誇るべき功績であると同時に、死ぬまで手放せない勲章になってしまっただろう。

そう考えると、私は将来家族を蔑ろにしない自信なんて毛頭なく、むしろ恋人も家族も、会社の運命の岐路の前では容赦なく傍観できるかもしれない。そういう傍若無人で、謝罪や義理なんて言葉は脳裏に浮かびもしないほどに、これまでの悔恨を一方的に水に流して生きていける神経の図太いやつが、優秀で、それなり幸せそうに生きていく。私に出来ないことを、平気でやってのけて、笑っていられる。羨望はしないが、その加害性を少しでも私に分けて欲しい。そうすれば、もう一度、父に怒る気にも、向き合う気にも、なるかもしれない。無理か。

時折、面倒になって、対等な友達の存在が疎かに、朧げに見えて、面倒だから奢ってしまえばいいや、と考えたくなる。それは上下・損得の関係値を自ら、まっさらな人間関係に対して付与する行為に他ならず、多くの“愛を欲する孤独な人たち”がたどり着く終点地点だ。そこに私がいくのは、まだ早い、もう少し現実やこの街と戦ってみた後で、きっと遅くない。ただ、無い金の使い道だけを考えて、ダラダラと過ごすくらいなら、孤独でもありあまる資産があった方が、私はきっと幸せだ。心と教養に貧しい大学生を見ると、いたたまれない、フードコートやコンビニのイートインが醸し出す、不幸と停滞の感情が張り付いてきそうな、あの感覚と、同じ感情になる。屯して一人でインスタントラーメンを食べる作業労働者を差別したいわけでは一切ないが、彼らが陽気な顔をしているところを見たことがない。わかりやすい差別よりも、無関心や短期的な救済の方が切ない。知らない方が良い娯楽や、価値が、溢れているから。

嫌いなものが多すぎる私は、無関心に笑い優しい顔をする輩よりは、良い人のつもりだが、それが正しいかどうか、知るよしもない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?