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儀礼的無関心とは…?



朝ドラ『あまちゃん」第17回より

 
 

ユイ:言っちゃおうかな


アキ:え?




ユイ:誰にも言わないでね


アキ:うん


ユイ:私…アイドルになるの
             東京行って、アイドルになるの

 
 

何言ってんだこの子は?!
あいた口が塞がらないとはこの事です
バカなのか?
毎日あんな分厚いステーキばっか食べてるから、どうかしちゃったのかしら?
とりあえずアキは、聞こえてないフリを装いました。
 
 
 
 
 


アイドルになりた~い!!


はぁ~っ、ははは




聞こえない作戦、失敗です。


儀礼的無関心
とは何か?



この〝聞こえないフリ〟っていうものは、意外と日常でやっているようだ。


wikipedia『儀礼的無関心』より

同じ社会的状況に単に居合わせているだけの人々の間で行われる礼儀正しい振る舞い方の1つ。

(中略)

「相手をちらっと見ることは見るが、その時の表情は相手の存在を認識したことを(そして認識したことをはっきりと認めたことを)表す程度にとどめる」「そして、次の瞬間にすぐに視線をそらし、相手に対して特別の好奇心や特別の意図がないことを示す」ように振る舞うことである。

(以上)


たとえば電車の車内など、不特定の人々が一時的に場を共有する空間では…

無闇に他人をじろじろ凝視しない
(無遠慮な視線を送らない)
大声や飲食、携帯電話での会話などを控える。等々…

他人の迷惑を省みない傍若無人な行動も、〝儀礼的無関心〟から逸脱した行為だ…

しかしそんな行為を、仮に見掛けたとしても、下手に注意したりせず、静観・無視するか、その場を避けた方が賢明だろう…

それこそが〝儀礼的無関心〟ではないか?

「無責任な、冷たい奴だ!」と思われるかもしれないが…。

親しい人にアドバイスするなどは別かもしれないが、〝他者〟の考えや行為というものは、そう簡単に変えられるものではない、と思う。


『儀礼的無関心』とは、例のドラマトゥルギーのアーヴィング・ゴフマンが名付けた用語だが、公共の場でとる現代人の公共マナーといったところだろうか?

ただし一概に電車といっても、通勤型のロングシート、急行型のボックスシートや、特急型のリクライニングシートでは、場の空気感が違ってくる。

空間の構成のちがいによって、要求されるマナーにも差が出てくるのだろうが…、この微妙なちがいは、別のところで考察してみたい…

ところでアキの〝聞こえない作戦〟は可愛かったが、これは果たして〝儀礼的無関心〟なのか?

アキとユイは、親しい友人同士だから、これ単なる〝シカト〟※というやつかもしれない。


子供は〝儀礼的無関心〟とは無縁だ…


ちなみにだが、天野アキという女の子は、独特な距離感を持っている、と思うのは私だけの思い過ごしなのか?

東京から北三陸にやって来たアキは、夏婆に海に突き落とされ、海女になって、とても明るい女の子に生まれ変わった…、というのは間違いないが、それでもユイはアキがなかなか本音を自分にぶつけて来ない距離感や〝もどかしさ〟を感じている。

アキとユイの大喧嘩…「やってらんねえ!」のぶっち切れは、迫力があったが、やはりアキはどこかユイに遠慮がちだ。
それをユイは(都会人に)馬鹿にされているみたい、と言う。

いや、その距離感は、ユイだけではなく、最も親しいはずの母や父、夏婆に対しても感じるところがある。


自立しようとする若者ならば、誰でも持っている他者との〝余白〟みたいなものかもしれないが、アキがとても明るい感じだから、余計そんなところが気になる…

北三陸の空気に染まっても、やはり都会で育ったアキにはクールな〝儀礼的無関心〟が染み付いているのか…?

若者の光と影を演じる分けるのん(能年玲奈)さんの実力は、『ホットロード』や『動物の狩り方』でも証明済みであるが、
そういう見えない心の余白を演じるのんちゃんは、すごいアクトレスだと思うのだ。

ちょっと余談が長くなってしまったが…



コロナが社会にもたらしたのは
不自由か、それとも自由か?


山手線の車内で、スマホに見入っていても、駅で扉が開いて乗客が入ってきたら、チラッと一瞥する。『儀礼的無関心』とは、そんな感じだろうか?

今日、物騒な事件も多いし、乗客の顔ぶれに全く無関心ではいられない。

あげくにコロナによるディスタンスによって、必要以上に人(他者)との距離感が広がっているのは確かだ。


酒の席もめっきり減った…というより無くなった。宴会や忘年会…
酒を酌み交わし、本音で語り合う。
ストレスを解消できる時間だ…

「残念だ。」という感嘆が多いと思うが、逆に「よかった。」と思うヘソ曲がりもいる。私はその一人だ。

気の合った者同士なら、酒は飲まなくても食事で楽しめるが、取引先の宴会などは、酒が苦手な者にとっては苦痛なものだ。

酒席の付き合いが減って、自分の時間が持てるようになったのでよかった、と思う人は、意外と少なくないのではないか?

極端な言い方をすれば〝孤独な時間〟を有意義に過ごす時代がやってきた…ということなのではないか…?

最初に『緊急事態』が発令された時、そう感じた。

『孤独』とは、とかくネガティブなイメージを持たれるのが普通だが、こういう時代が来た以上、ある意味肯定的に捉え、積極的に活用した方が得策なのではないか?



心のオプトアウト…、人々は
そういうものを必要としているのでは…?



『儀礼的無関心』とは、〝自分〟が〝他者〟に対して気づかうべきマナーなのかもしれないが、逆に〝他者〟からも気づかって欲しいと思う要求でもあるだろう。

私もエラそうなことは全然言えないが、「酒付き合いの悪いヤツ」というレッテル貼りは、そろそろやめにして、〝他者〟との距離感が適切な社会に成熟すれば、コロナ社会の服反応は〝めっけもん〟なのだが…




距離の取り方がわからない…
というみつ子の悩みは、まさにいま
社会の課題になっているのではないか?