久高島に行ってきた。(2)

 だいぶ間があいてしまいました。

 次の島探訪の前に、早めに最初の島のことを書ききってしまわないといけない。ますます脈絡がなくなりそうですが書きます。

■わが家の年中行事
 久高島には40もの年中行事がある(あった)そうですが、実は僕も実家でいくらかやっていて、それで関心があるという面があります。僕が帰省するのはここのところ盆と正月だけですが、盆と正月だけは帰りたいと常々思っています。それの理由は、今のところ家族と会いたいとかじゃなく、家族と年中行事をキチッとすませたいという気持ちのほうが強い。役(目)があるから。僕が帰らないと、親が大変になる、か年中行事をやめてしまうかもしれない。それでなんとなく使命感をもって帰る。という感じです。
 大学で演劇をやるようになってから、なんだか知らないけど親が愚直にやってきてた年中行事がしみじみと面白く感じられてきて、「実は、自分の演劇の根っこはここにあるのかもな」というふうに思っているわけです。
 そんなわけで、たとえば年末年始は、三十数年間、同じ段取りの数日間を過ごしていて、欠かしたのはたぶん物心ついてから1回だけだと思います。お盆はもう何回かとばしてしまってるけど。

 正月は神様の行事で、藁から松飾りをつくり、いわゆるおせち的な料理をつくり、大晦日から三ガ日まで決まったものを食べる。昔は、12月30日の朝になると、父と一緒にわが家の山(といっても山のごく一部)に行って、松をとってきて、昼前からビニールハウスでラジオを聞きながらシメ縄、オヤス、輪ジメ、等々のパーツをつくり、習字紙からタレをつくって、夕食までに飾り付けをしていました。今は、僕が帰るのが大晦日になることも多く、父も歳をとって、31日におんなじようなスケジュールで(でも松は買って)「一夜飾り」になることのほうが多いですが(一夜飾りは好ましくないこと)。そうすると大晦日のお年取りの料理の手伝いとかぶってくる感じで、まあ毎年、父の手伝いのあと、母の手伝い、というようになっています。

 僕の「役」といった仕事は、お年取りの前後から始まります。なんでも、その家で一番若い男が、神様むけの仕事をする。松飾りのお浄め(杉の葉と塩で)から始まって、各食事の前に、自分たちが食べる前に飾ったそれぞれの松をめぐって、自分たちの食べるものを小分けにしてオヤスに供える…というか入れる、そして最後に、主食(米か餅かそばかうどん/日によって決まってる)を盛り加えて、神棚にすべての食べ物を供える(上げ直し)ということをすることになっています。
 これを、本来的には、大晦日〜三ガ日、七草、小正月等々のときにやります。高校を卒業して家を出てからは、三ガ日の自分がいる日までしかやっていなくて、あとは父がやってると思いますが。

 ちなみに、お盆のときは、特にそれらしい役は無くて、迎え火の日と送り火の日に、藁と葦からたいまつをつくる、くらい。男たちがたいまつに火をつけて、お墓から家にご先祖さまを連れてきて、連れて返す(迎え火のときは「じいさんばあさんごんざれごんざれ」と唱えながらお墓をめぐる。送り火のときは「じいさんばあさんおかえりおかえり」)。
 ちなみにここで面白いのは、「玄関」のことで。うちの実家の建物は、江戸時代の終わり〜明治の頭くらいに建てられたそうですが、周辺の家も、そのくらいに建った家は、ぜんぶ、お盆のときだけ使う「玄関」があります。「玄関」はお盆の時にしか使わなくて、普段、生きてる人間が使うのは「上がり端」(あがりはな)という、土間/タタキから家の中につながるところ。玄関はお盆の迎え火/送り火のときだけ、ご先祖さまと一緒に上がり下りする。玄関はお座敷と直結。
 お盆のあいだ、お座敷には「お棚」と呼ぶ、葦やその辺の花々で飾った仮設の仏壇を立てます(この飾りの葦を翌年たいまつに使う)。で、そこに位牌を移動します。つまり、玄関を使うことでお墓からお棚に直結でご先祖さまを誘導するという感じになっています。この、なんだか、家が舞台装置になっていて、日常において上演するみたいな感覚や、その辺にある植物を採集してきて飾りをつくって、装置を装置らしくする感じが演劇だなというふうに、演劇をやりはじめてから思うようになりました。

 というわけで、各地で、そういうふうに行われる年中行事の演劇らしいところに、僕は惹かれています。

 いわゆる今の演劇だと、まあ、作品にあわせて、それにふさわしい装置をつくるわけですが(といっても予算的な縛りはあるわけですが)、なんか、この、飾りをその辺にあるもので創る感みたいなのが面白いと思います。ブリコラージュ感というか。
 で、そうすると、当然ながら、日本のような狭い国でも、各地で「手に入る」ものは違いますから、それぞれの地域の風土によって、行事のカタチも変わってくる。信州と沖縄ではその辺にあるものというか、生えている草が違う。使うモノが変わってくれば、モノがはらむニュアンス/物語性も変わってくるし、行事のカタチが変わってくれば、その行事の営みがもつ意味合いも変わってくる。で、それが人間と風土との繋がりということでもあるし、生活を込にすれば風土そのものでもある。そういう、環境と物語の行ったり来たりみたいなこと。興味はそのへんにあるんだと思います。
 「僕はこれやってるけど、ここの人はどうやってるのかな?」と、まあ、そういう感じです。

 で。

■自然信仰、世界宗教
 実は久高島に行く前に、斎場御嶽に行きました。ちょっとした傾斜を登っていくと、「ここで拝む」という岩があって、一応拝む。「これこの感じなんだろうなぁ」と思ったら、僕の中では、「この感じ、お寺だな」という感じがしました。
 久高島にも御嶽があります(関係ない?けど、長野県には御嶽山(おんたけさん)という山があります。最近噴火してたくさんの人が亡くなった山)。ノロのひとたちが、そこで年中行事を行ったりもしています。寺っぽい。お寺と御嶽でなにが違うのかといえば、たぶんそれは、仏像/偶像というか、神社でいえばご神体のようなものが、ない、というか、あるけど自然物だという部分。

 それでなんとなく合点がいったのですが、「やっぱり沖縄と内地は違う」と感じていて「けどそれは何なんだろう」といったとき、とても根っこの深いところで、人工物=抽象概念としての神仏を拝んでいるのか、そういうものではなくて自然自体を拝んでいるのか、というところの違いがあるんじゃないかな、ということを思いました。大して珍しい考えでもないとは思いますけれども、その実感をもちました。
 言い方を変えれば、古代か古代以前の(内地のほうは6世紀とか7世紀から仏を(も)拝んでる)精神のあり方の幾ばくかを、年中行事を繰り返すことで保存してる(た)のが、久高島とかなんだなろうなということですね。
 新宮に行ったときに感じる、荒々しい神様との関係、自然と神様の関係は、どこか、伊勢や仏教の洗練された感じと違う、そうなる前からの、でもおんなじような人間の精神のありよう、神様とかと一緒に生きている感じを保存してるような気がしてくる。久高島の場合もそういう部分があって、かつ、神様という抽象的なのになるというよりも自然そのもの…自然と人間の生活が直接的に物語に、信仰になっているという感じ。イメージとしてはネイティブ・アメリカンとかが想起されてもくる。
 でもいや、人間が神様になっているわけなので、一緒に生きているというより混じり合ってるといったほうがいいのか。

 翻って、これは、ほんとに久高島に行って閃いたことだけど、仏教とかの洗練された宗教というのは、とても大きなことなんだな、と。つまり、そこの場所場所の風土ということを捨象しても成り立つ言葉と振る舞いの体系になっている。だからこそ、インドで生まれて、日本でも受け入れられる。もちろん偶像とかの力もあるんだろうけど、むしろ偶像を信じこませるだけの言葉/物語の洗練があって、説得されるんだろうと。突然高校の現代社会で習った以来の「世界宗教」という区分についての考察が湧きだした。仏教/イスラム教/キリスト教。
 いま日常語の中にも全然たくさん仏教語が残っている(というか、それを西洋概念にあてはめて、明治以降の日本語をつくってる。「自然」とかだってそう)けれども、そうやって世界宗教の言葉を受け容れることで、ある種思考の様式が脱地域化されて/普遍的になって、あるアクティビティが可能になる。自然信仰だからなんとなくプリミティブでありがたい、というようなこともあるけど、一方で、むしろ、世界宗教によって伝授されることの凄さというか、世界宗教の言葉って凄いんだな、というようなことも、同時に感じた(そして、資本主義はやっぱり宗教だし、お金は移動しやすいご本尊なんじゃないかなと)。本島には一応仏教はあるみたいだけど(でもどうやら内地の室町時代=臨済宗とかから)、久高島に関して言えば、まったくといっていいほど、仏教を通過していないんだろうということが実感できる。現状日本語圏なのに。
 沖縄の原郷が久高島、というようなことだとしたら、やはりそこに根っこの違いがあるような気がする。

 沖縄では「東」をアガリと読み、「西」をイリと読む。太陽が水平線から上がるのが東で、太陽が水平線に入るのが西。なるほど、わかる。で、それをこう読む背景に琉球の信仰の世界観がある。それに内地でいう、ヒガシ/ニシと同じ絵柄にあててる。方向という部分では、同じだからだと思うけど、背景の世界観が違う。
 いま、日本の中にある沖縄で、東/西という漢字を覚えるときには、アガリやイリという読み方はノイジーなんじゃないかなぁと勝手に思う。僕自身が、「城」をシロと読むのか、ジョウと読むのか、グスクとよむのか、判別するのがややこしいなと思ってる。なんか寄り道しないといけない。
 僕は、相撲から漢字を覚えたので、「寿」はまずジュだった(太寿山から)。で小さいころ、母の実家に向かう途中「寿橋」という橋があり、喜んでジュバシ!と読んだら、車の中で笑われて、親にコトブキバシだと修正された記憶がある。
 だからもし、僕が沖縄に生まれていたら、まず「東」をアガリというふうに覚えた可能性は多分にある。ジュとコトブキはまあ、まだしも音/訓の日本語(標準語)内の話だからいいけど、東をアガリと読んでも内地でそれは使えない。テストの点数下がるわな、と思う(し、そういうテストってなんだろな、ということも当然思う)。

■習合と植民地化
 で、ここからが本題なのかもしれないが、「文化的な植民地化」というような大それたことを、前回書いた。
 一方で、僕自身がやっている年中行事を省みるとそれは、神道のような行事(正月)と、仏教のような行事(お盆)のことだ。年中行事上で混ざっちゃってるんだな。「神仏習合」ってやつですか。

 そう。よく「神仏習合」という、その「習合」というのと「文化的な植民地化」というのは、何が違うんだろう、ということを、久高島から帰って来て数日してから思った。

 沖縄っぽい言葉でいえば「ちゃんぷる」でしょうか。長崎っぽい言葉で言えば「ちゃんぽん」ってことになるのかな。そうやって、その場でその辺で手に入るもので形作られた物語と、外から侵入してくる文化的な様式がまざって、独特のありようをする。
 たぶん、清潔に先の問いに答えたら、「何らかの政治的な圧力によって、土着の文化が変質させられるのが植民地化で、そういう圧力を伴わずに混交していくのが習合」みたいなことになるんだろうけども、それもウソっぽい。というよりも、「習合」といって無害化されてるのはある意味、その文化の背景だった政治的な圧が現状ないからそういえるだけで、あったときには「植民地化」のように受け取った人々もいたのではないか。
 沖縄では普通のスーパーでシーチキンが箱で売ってるし、スパムもバラエティがあって安い。これをアメリカによる植民地化というのか、勝手に沖縄の人たちに広まった習合文化だというのか、けっこうわからない。
 むしろ、日本が国民国家になって、浮世絵を海外流出させまくったりとか廃仏毀釈とかしつつ鹿鳴館つくったように、力がある国=羨ましい文化をもった国の真似をしようとして、そうなる、し、そのことによって、羨ましい国とコミュニケーションできる存在になろうとしている/コミュニケーションできることを態度で示そうとしている、という、けなげな姿勢のほうが真実味がある(組踊もそういうもんだと感じている)。

 乱暴に書き散らかして、といって特段強い主張をしたいわけでもないので、いきなり終わるけれども。
 この、習合=ちゃんぷる=ちゃんぽんのポジティブさをきちんと意識しつつ、でも「文化的な植民地化」という観点はとても捨てられるものでもない、というのが現状の直感。ということ。