見出し画像

見える孤独をあじわいたい 01

year 0

彼のこと

彼との出会いはmixi。当時はSNSというものがまだほとんどなくて、唯一がmixiだった記憶。まだ世界にiPhoneがなくて、どんどん携帯電話は小さく小さくという競い合いがなされていた。ぼくは小ささにはこだわらず、かわいさで決めていた。価値観というのだろうか、ぼくはいろんなことを「かわいい」で決めている。決めてきてしまった。が、彼のことはかわいいとは思わなかった。かっこいいとも思わなかった。オシャレとも思わなかったし、自分と縁がある人などとは1ミリも思わなかった。ただ、いい体をしている、と、そういうことは思った気がする。mixiでやり取りを重ねた記憶はない。当時のmixiにはプロフィール写真として3枚分のスペースがあり、想像を掻き立てる写真選びにみんな注力していた、そういう世界観だった。

ぼくが彼を知ったのがいつかはわからないが、ある日「お気に入り」に入れた。お気に入りには何十人も男子を入れていた気がする。手軽にブックマークする感覚でそれをして、当時はSという彼氏がいたが、その彼はある日のある夜にぷいっと半同棲のぼくのマンションを出て行って、それで別れることになった。原因は忘れた。浮気はどちらもしていなかったし、決定打はなかったと思う。ただ、ぼくの優柔不断とか流されまくっている生き方とか、彼を大事にせずに友だちに呼ばれれば断れない毎日に愛想が尽きた、そういう理由を言われた記憶がある。今も基本的にその性質は変わっていないからSは正しかった。賢明な判断をなされたと思う。

浮気はしていないが、心はもう別の人を求めていた、心の浮気がその「お気に入り」だったのだと今は思う。それくらいなんてことないが、そして恋人がいる最中に見ず知らずの人にメッセージを送ることはしなかったが、もうどこかで「次」を想像していたのかもしれない。ぼくは、20代後半の自分はそうだった。付き合っても半年で終わりになる。飽きてしまう。好きという気持ちが薄らいでいく。相手にしてみてもたぶん似たようなもので、別れ話がこじれたことも最初の彼氏以外はなかった。最初の彼のことは書き出すと長くなるから今は書かない。彼のこと、Mのことを書く。

彼とは初台のデニーズで、ぼくは仕事の飲み会だか何かのあと、深夜に会ったと思う。普通に酔っ払っていて、酔った勢いで気になる人に電話をする要領で彼にメッセージを送ったのかもしれない。そこで、デニーズで餃子を頼んでいたらしい(近年彼から聞いた)。ビールも飲んでいたかもしれない。ビールといえば、ぼくがお世話になっていた週刊誌の最初の面接みたいなもので、当時のちょっと偉い編集者の人もファミレスでビールを飲んでいた。ファミレスで面接というか初めて顔を合わせた。面接といっても真面目なことはたぶん聞かれず、「感じ」をみた、それだけだったのかもしれない。拍子抜けをしたが、その面談みたいなことが足がかりとなり、見習い記者みたいにして編集部に出入りすることになったのが25歳の終わり。その年は激動だった。初めて彼氏というものができた。sexは何が初めてだったのか記憶が曖昧なのだが、曖昧でもはや真相が不明ということで、ぼくはその人が初体験ということにしている。初体験はだから25歳ということになる。その日のことをとても憶えている。その人の実家にその人のバイクの後ろに乗って朝方に到着し、シャワーを浴びようとなった。ものすごくうぶだった私は、「シャワーを浴びる」という行為に心臓がバクバクしたのだった。よくテレビドラマでいう「先にシャワーを浴びて」というセリフを実人生で聞くことがあることに、ものすごいドラマ性を感じた。そして彼の実家のシングルサイズだったと思うベッドに寝た。それがぼくのゲイとしてのある始まり。その日から世界が変わり、ぼくは恋愛というものをした。ぼくの人生に恋愛というものがやってきた。一生縁がないものと思い込んで、思いつめて、死にたくなっていた10代20代前半の私にとって、その自分というのは夢の世界の人のようだった。夢は叶った。夢はそれほど努力をせずにいくつも叶った。雑誌でライターをやるというのも一つの憧れで夢だった。夢とは、そういうものではないか、とも思う。未来の自分からの情報として「それをしてみたい」と今の自分はそれを夢とする。夢はその場合、叶えるというよりも、「そうなることになっている」未来からのお印みたいなものではないか、と。だけど「無理」と決めてしまうとそれは無理になる。その意味では現在の、今の自分の自由意志みたいなものも力を持っている。彼のこと、彼とのことがどんどん書けない、遠ざかっていく。近づけそうで近づけない当時の私たちの距離感のように。

mixiで彼に会おうと思ったのは、彼のことがよくわからなかったから。人のことを勝手にわかった気になってしまうという性質は特別なものなのだろうか? 誰でもがそのような感覚、あるいは偏見、思い込みを持っているのだろうか? それともぼくにはちょっとした能力みたいに「この人はこういう人」とわかるのか。たぶん違う。ぼくは人のことなど実は全然わかっていない。自分の中のデータという狭い窓から覗き見て、勝手にスケッチしたその像を見て「なるほど、わかった」と言っているだけなのだ、おそらく。それから「わからない」という観念によって「この人はわからない」となる場合もある。なぜなら言葉が枠をつくるため。たとえば言葉がないと感情だってわからないのである。悲しいという言葉を得て、「ああ、これが悲しいのか」と言葉と感情が紐付き「悲しいんだけど」とかなる。そう思うとき、何語で考えるかということは性格形成みたいなものにものすごく影響が大きいのだろう、だからして帰国子女は「帰国子女ですよね?」という雰囲気を醸している、それこそ帰国子女と「わかる」のかもしれない。ちなみに彼はオーストラリアに留学していたことがある。高校卒業後の数年シドニーに暮らしていて、出会いたての頃に彼にその話を聞いた流れで「また住みたい?」と聞くと、「いつかまた住みたい」とそのような答えがあり、気持ちが暗くなったことがあった。彼の想像のシドニーに自分がいる気がまったくしなかった。たぶん彼の想像にぼくはいなかったのだと思う、そしてその脳内ヴィジョンのようなものをテレパシックにぼくは感じて悲しくなったのだ。と思うが実際のことはもう絶対的にわからない。その話は、西新宿の焼肉屋から代々木4丁目のぼくの部屋へと歩いて帰る帰り道に聞いた気がするが、全部本当のことはもうわからないわからないわからない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?