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Aの自分 Bの自分

◎ぼくAの理想

なんにもしなくても悠然と生きていける。
一切の苦労とか苦しみ、悲しみ、怒りなどがなく、
一切の不安や心配がなく、
一切の物理的、精神的な拘束がない。
好きなことだけをして毎日たのしく暮らしている。
それが究極の理想(これを悟りとか解脱と思っているのかも)

◎ぼくBの理想

人間であるところのさまざまな感情を経験することで、
人間として、魂としての進化をとげたい。
魂としての進化とは何か?
痛みなどを感じない人間なのかというとそうではなく、
痛みを知ることでやさしくなれる。
痛みを経験し乗り越えることで強くなれる。

さまざまな”問題”と出合うことで、
”問題”を”問題”としなくなる。クリアーしていくこと。



Aは楽を求めている。安全安心を望んでいる。
そのためには外的要素の一切をとりのぞきたいと考えている。

Bは外側の要素の影響を受けないようになることで
「安全安心」が在るということを知っている。

Aは山にこもって、世俗から離れて暮らしたい。
誰の邪魔も干渉も受けず、ひたすら平穏であることを求めている。

BはAのその望みを叶えるべく、
BであるA以外のすべてをAの望みのために与えている。
「試練」はAから見た世界の捉え方。
BはAのためにそれをもたらせている。
Aの究極の理想「楽」「安全安心」は、
Aの心の境地にあるとBはいう。
「なんにもない」「なんにもおこらない」のではAは進化しない。
そもそも宇宙は動いている。変化しつづけている。
変化=宇宙。
変化=生。
生とは変化を意味する。
AとBの目的は実は一緒。
究極的にはイコールなのである。
Bの中にAは在る。
BとはAとそれ以外のすべて。
Aに一致するのではなく「意識」というスイッチを使うことで、
AでありながらBでもあれる。
Bの視点にたつことで、
Aにおける”ドラマ”が「ドラマ」であることに気がつく。

Bと一致するにはAの時間をへらし、
Bの意識でいる時間をふやすこと。
そのために最もシンプルで手軽な手段が瞑想。
「自分=A」を無くす。
ただし「人間」であることはAであることなので、
一切「無」になることは人間である以上ムリ。
それは死を意味する。
解脱や悟りとはBであることを知りながらAを生きること。
そのときにAは人生を真に味わう。楽しむことができる。

Aの避けたい”苦”とは、捉え方によって生じる。
現象は「おこってくる」もの。
A的”苦”はおこってくるが、それをBとして捉えることで、
”苦”は”苦”とも捉えることのできるニュートラルな現象とわかる。
" 苦”選んでいる。”苦”と捉えているAに気がつける。

Bの目でAの「今」をみることでBとつながる。Bになる。
「今」にはさまざまな要素がある。
何をみるか、どう捉えるか、どう感じるか。
それが「今」を決める。「今」に反射される。
Aがどう捉え感じているかに気がつけば、今以降の現象が変化する。

【自分を知る】とは2つの意味がある。
AとしてAの状態(思考、感情、在り方)を知ること。
A特有の「世界観」を知ること。
もうひとつは、Bである自分を知ること。

おこってくることはおこってくる。
おこることはおこる。
それにとらわれ、ふりまわされているとAの求める平穏は限定的。
外側によるところとなり不安定。
Bとして在ると、外側の現象もまたBなので、
おこってくることにふりまわされることはない。

BをAが把握することは不可能。
なぜならAを包括するのがBだから。
アリの目に地球の全貌は見ることができない。
ただ、想像することはできる。感じることはできる。
感じ、想像したことを信じることはできる。

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