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反動期の高校演劇 7

反動期の高校演劇〜「らしさ」をつくるために〜

⒎「らしさ」をなぞるのではなく、つくるために

    ナオミ・クラインの最新刊『NOでは足りない』の副題には「トランプ・ショックに対処する方法」とある。トランプ大統領を生み出したアメリカ合州国は、ポーランドやハンガリーのような、事実上の独裁者が支配し民主主義が機能不全に陥った全体主義国家に近づきつつあり、「ポイント・オブ・ノー・リターン(引き返せない地点)」の一歩手前である、というのが、ポール・クルーグマンの深刻な現状認識だが、そのような最悪のシナリオを実現させないための、ナオミ・クラインの処方箋が「NOでは足りない( No is not enough. )」だ。この二重否定を、ただひたすらの現状否定(ペシミズム・シニシズム)にも、ゆるみきった現状肯定(オプティミズム)にも、決して還元してはならない。一方では、トランプが象徴する排外主義や全体主義、それらが引き起こす差別や分断や衝突や戦争について徹底的に否定・批判しなければならない。だが、そのようなNOだけではトランプを支持する人間とその現実には届かない。かれらの疎外感や困窮を解決せず、むしろ追い詰めるばかりでは、かれらはますますトランプの過激な言動を支持する一方だ。だからこそ、他方では、そのような現状を変革し、福祉や経済的な平等をもたらすような肯定的なビジョンを持ち得なければ、トランプ・ショックには対処・対抗できないというのである。すなわち、それは無限の二重否定の運動としてのYESである。

    高校演劇において私が採るべきと考える道も同じである。「らしさ」を無批判になぞるのではなく、また、「らしさ」を無視するのでもない道。コンクール至上主義でもなく、自主公演バンザイでもない道。「らしさ」の画一性を無限に批判するとともに、「らしさ」を必要とする現実に寄り添い、そこで生きる人々を描き尽くそうとする道。

    それはその必然として、既存の「らしさ」をなぞるのではなく、それに対峙し、批判の俎上に載せ、煮て、焼いて、食って、新しい「らしさ」をつくりだす。何のことはない。ついこの間まで、創作の態度として当たり前であった、このような原則に立ち返るだけだ。

    そして、新しい「らしさ」は、「会議の精神」による無限の創出過程を伴うものでなければならない。成り立つと同時に外気を吸い、変化を始めるものでなければならない。それは、打たれ、叩かれ、火の粉飛び散る鋳剣の只中のように、常に赫く燃え盛った典型である。

    結局、演劇をやる理由なんて、そういう創造の興奮の渦に、いつも身を浸していたいだけではないですか?それが真の演劇人ってもんでしょう?その喜びの最中に、プロとアマチュアの違いがどうとか、コンクールの勝敗がどうとか、つまらない事ぬかす連中は、ケルベロスにでも喰われてしまえ!演劇は演劇だ。

    最後に辛気くさいことを一つ。「ポイント・オブ・ノー・リターン」をとっくに過ぎてしまった国の演劇は、とりわけ「らしさ」を無視したり嘲笑したりしてはならない。今こそ、1968年革命の騒乱に沸くパリを横目に、メキシコ在住の映画監督、ルイス・ブニュエルが発した次の言葉に学ぼう。「いいなあ、パリは。学生がデモ行進したり火炎瓶投げたり。メキシコシティであんなことしたら、一発で銃殺刑だよ。」軽挙妄動は、敵に塩を送るだけだ。もっと慎重に、粘り強く、「らしさ」に分け入り、その現実を見つめ、変革し、新しい「らしさ」をつくらなければならない。そうしなければ、古い「らしさ」は我々を鯨の一口のように易々と飲み込んでしまうだろう。

    あるいは、我々はもう、鯨の腹の中で、それと気付かず暮らしているのかもしれない。( 2018.9.14.執筆)



 


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