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反動期の高校演劇 5

反動期の高校演劇〜「らしさ」をつくるために〜

⒌「らしさ」への異和を表現に高める主体

    高校演劇の今昔に思いをはせたのは、『青年演劇一幕劇集【第一集】』(青江舜二郎編、未來社、1959年)の、次のような一節にたまたま目がとまったからでもある。

「ある午後」この作者(岡野奈保美氏)は三年前は高校生で、「向い風」という身売をあつかった作品を書き、それを私(編者の青江氏)が「悲劇喜劇」に推薦した。福島県のコンクールで、これが一位になった時、あとの講評である審査員が
ーーー今度はもっと高校生の生活に密着した脚本をとり上げるように。
というと、彼女のグループはいっせいに
ーーーあれが私たちをとりまいているほんとうの生活です。
と叫んだことが、いまでも私に鮮明に思い出される。〔引用文中の(      )内は引用者補足〕

    審査員の頭の中にしかいない、先入観や固定観念としての「高校生らしさ」を現実の高校生に押しつける倒錯は、ずっと昔から、おそらく高校演劇が始まった頃から存在していたということが、ここから分かる。しかし、驚かざるを得ないのは、その押し付けに対して、他ならぬ高校生自身が公然と異和を表明し、身売という重い現実を直視して作品に結晶させる、確固とした表現主体として存在し、その上でコンクールでも1位を取っているという事実である。隔世の感は海淵ほどにも深い。

    さらに言えば、その高校生が卒業後も青年劇の書き手という形で自立演劇の担い手となり、その作品が書籍として記録され今も確かに存在しているという事実である。アングラや小劇場以降の地平で演劇をみることに慣れた現代の我々にとって、いかに古くさく、教条的に見えようとも、新劇と呼ばれた演劇運動のこのような、政治やアマチュアや観衆をも巻き込んだ総合文化運動的な側面を決して軽蔑したり無視したりしてはならない。現在の我々が、それを超える活動やその記録を残しうる保証は全く無いのである。むしろ私には超えられない暗い予感しかない。

    もちろん、現在の高校生の中にも、世の中の価値観や現実に違和感を感じる者は存在する。だが、そのような者も、結局は「普通になれない」ことが悩みで、既存の価値観をむしろより強く内面化していることが多く、自分を責めるばかりで、システムへの異和や社会の矛盾を感じる者は少ない。ましてやそれを身体不調といったレベルではなく、言語や表現として意識化できる者は今や絶滅危惧種と言ってもいい。かろうじて表現された作品にしても、日常的・身体感覚的なものが主となり、それを社会的な次元にまでつなげた作品は更に少なくなる。これはプロの若手まで含めた、社会性やそれを捉える「人文知」としての知性の退潮といえる事態であろう。

    私はこの事態を、近代劇と現代劇とでは、作品内部における身体性と社会性との関係の仕方が変わっただけであるという見立てに納得しない。同様に、ドラマからポスト・ドラマへ、主題・テーマから身体へ、などという整理にも首肯できない。口当たりや調子の良い、こういう見立てや整理自体に、既存システムへの最適化と資本主義への馴致(要は処世術と金儲け)しか感じない。

    私のこの意見に反論する者は、それではなぜ、これほど政治や社会に無知・無関心な者が増えたのか、それは政策的に仕組まれたものではないか、はっきり言って現在は反動期ではないのか、という問いかけに理路整然と反論して、どうか私を納得・安心させて欲しい。これは皮肉ではなく悲願だ。

    高校生と日々接する現役顧問の実感としても、ついこの間まで一般的だった、「日常に生きづらさを抱え、演劇部という『小さな場所』でだけやっと自分を解放でき、ほっと息がつける」といった演劇部員像は、もはや過去のものかと思わざるを得ないほど、そうした部員に出会う確率はめっきり減ってしまった。皆、よくも悪くも「普通」なのである。そうでなければ、「体調不良」や「メンタル不調」で部活自体を続けられないか。

    だから、これまで縷々述べて来た、現在の高校演劇の「高校生らしさ」への屈服は、今の高校生の現実の、正直かつ無批判な「反映」なのだろうとは理解する。とはいえ、無論、それは批評性を含んだ「表現」ではあり得ない。
( 6に続く )


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