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反動期の高校演劇 3

反動期の高校演劇〜「らしさ」をつくるために〜

⒊高校生らしさを産出するコンクールの構造

    とはいえ、高校演劇のコンクールはそれ自体として、「高校生らしさ」を評価、産出、拡大再生産する構造を有しており、しかも、それは今に始まったことではなく、おそらく高校演劇の開始以来の問題であろう。そこで高校演劇コンクールの構造を分析する。

(1)上位のプロが下位の高校生を「指導・教化」するコンクール

    当たり前だが、コンクールの審査員はその多くがプロの演劇人や全国大会出場・上位入賞経験を有する高校演劇顧問(あるいは、そのOB・OG)であり、どうしても、演劇によく通じた上位者が未熟な出場校を「指導・教化」するという構図になってしまう。これは審査員の意識の問題ではなく構造的なものであり、誰でも大なり小なりその「コンクールの構造」の中で表現し審査せざるを得ない。それ自体は仕方のないことかもしれない。

(2)「高校演劇と演劇は別」という差別意識

    とはいえ、審査員の中には「高校演劇」と「演劇」とは別物であり、高校生の習作として審査するといういささか極端な前提に立つ方も多い。特にプロの演劇人で顕著だ。「我々プロのやっている舞台と高校演劇を一緒にしてもらっちゃ困る!」ということだろう。もちろんプロの言い分としてはそうなのだろうし、実際、レベルの差は歴然としているのだろうが、一方で、その前提がレベルの差を越えて本質論にまで達している場合もあり、「高校演劇はその本質としてプロの演劇とは違う、つまり高校演劇は表現や芸術ではなく、高校生の習作に過ぎない」という意識や前提をプロの審査員に垣間見る瞬間も一度や二度では無かった。それはやはり差別意識だ。しかし、こちらから審査をお願いしている手前、そのことをプロの方に伝えられる機会は皆無と言っていい。 

    そう言えば、あるプロの演劇人はエッセイの中で、「高校演劇出身者を、マルコー(高の字を○で囲む表記)と呼んでバカにしていた」ということを無邪気に(本当に何の悪気もなく)書き記していたが、どうやらプロの演劇人の中で、「高校演劇は軽蔑や嘲笑や差別の対象として格好のジャンル」という意識は今でもやはり根強いのかと思う。そしてそこにはプロの演劇界の「根無し草」状態も関係しているのかと思われる。

    俳優の八嶋智人さんはテレビのバラエティ番組で「なぜ学生時代に劇団を始めたのか」ときかれ、「音楽の世界では最低限の演奏技術が無いとバンドを組んでも認められないが、劇団ではその最低限が圧倒的に低かった。友達数人と『自分たちは劇団です』と名乗ってしまえば、それで通用するところがあった」というように答えていた。大変正直な告白であり、小劇場の実状だろう。今の日本の演劇界には(良くも悪くも)基準となる演技・演出法が不在であり、百の劇団があれば百の演技・演出法が存在するような乱立・混迷ぶりであることは多くの演劇人の認めるところであり、おそらく唯一の客観的な基準は商業的な成否(要は売れるかどうか)に過ぎない。つまり演劇界にはプロがプロたる所以が芸術の理念として希薄であり、そのような時に自分とは違う、できるならば劣った存在を見つけて、その違いを強調することで、自己の優位やアイデンティティを保とうとするのは人間心理の常であり、経済力を急速に失った日本が排外主義に回帰しヘイトスピーチやネット右翼の跳梁跋扈を招いたことなどはその典型だろう。

    本当に自信があるならば、同じ土俵の上でレベルの違いを見せつければ済むだけの話である。たとえばプロのサッカー選手が少年サッカーの指導をする際に「少年サッカーらしさ」を重視して、プロとは違う方法論を教えるだろうか。おそらく、まだまだ未熟とはいえ、自分たちが成長してきた道のりを後から来る者として接するのではないだろうか。少年時代しか通用しない指導法は、逆に未来ある選手を潰したという非難さえ招くだろう。

    ならば、なぜ高校演劇は「別物」扱いされるのだろうか?(念のため申し添えれば、プロの方には「自分は違う」と胸を張っていただければ幸いだ。万が一、激昂でもしようものならば、それは図星に当たるので。そしてその姿を見るのはとても悲しい。)

(3)「高校生らしさ」の評価基準の具体例

    たとえば前述の宮城大会では、時間も労力も技術も要したであろうセットや、繊細な演技・演出法の学校が評価されない一方、元気いっぱいな(あるいは素朴な)「高校生らしさ」満ちあふれる学校が上位入賞を占める結果となった。その中には、トップサスに役者が入っていないというような「地区大会勝ち抜けない」技術レベルにもかかわらず、抜群の身体性や明るい雰囲気を評価された学校も含まれていた。その審査結果からは、「大人の真似をするな、高校生らしくあれ」という無言の声すら聞こえてくるようだった(実際、宮城大会ではないが、ある県大会では、かなりレベルの高い上演に対して「君たちは大人の真似をしているから嫌いだ」と明言して、その学校を落選させた審査員もいた。高校演劇関係者ならば、似たような事例は枚挙に暇が無いほど思い当たるのではないか)。

    ネットなどでも「こんな結果になれば、今後、頑張ることが怖くなる。頑張って高度なことにチャレンジしても評価されないんだったら」「高校生は高校生なりでいいよと馬鹿にされているように感じた」「高校演劇内の多様性を狭める審査結果」といった声が聞かれ、宮城大会のプロの審査員の1人はネット上に「自分は決して高校生らしさを審査基準にしていない」という趣旨の長文の弁明を掲載するに至った。

    とはいえ、くりかえすが、問題は個々の審査員の意識ではなく、なぜそうなるのかという構造的な問題であり、高校演劇に関わる以上、誰もそこから逃れられない。では、なぜ?

 (4)高校演劇とプロの演劇界との人材断絶

    まず即物的な事情として、高校演劇での評価とプロの演劇界での評価が全くの別物であるということが挙げられる。この点ではプロにつながる高校野球とは全く事情が異なっており、全国大会で最優秀に輝いたからといって将来プロになれる保証は全くない。もちろん、劇団四季の創設者である浅利慶太氏をはじめとして最近では黒木華さんや藤田貴大さんのように、プロの第一線で活躍する高校演劇出身者は存在するのだが、それが貴重な例外である事実が全てを物語っていると思われる。

   高校野球でも、たとえばセーフになる見込みがなくても全力で一塁ベースを走り抜けたりヘッドスライディングしたりする高校球児の姿が、プロとは違う「高校生らしさ」として称揚されたりもするが、それに対して、イチローが「ヘッドスライディングしても走り抜けるより遅いから、そんなことをするな」と発言する等、一種の合理化・正常化作用が働くのも、高校野球とプロ野球がドラフトという形でつながっているからであろう。当たり前だが、点数ではっきりと勝負が付く点も大きい。そこで万一、技術レベルを無視して、「高校生らしさ」というような閉鎖的基準での評価が横行すれば、それは将来のプロ野球選手の人材劣化に直結する。だが、高校演劇にその恐れは無い。

    あるいは読書感想文などは高校演劇よりもさらにその弊害が大きい(おそらく弊害としてすら認識されていないが)。読書感想文で全国入賞を果たすことと文筆業に就くこととの関連は高校演劇以上に見出しにくく、また、入賞をねらって物欲しげに書かれた定型、すなわち「読書感想文らしさ」というものは歴然と存在し、実際に入賞する確率が高いことも、現場の教員として証言しておく。そしてそれは外部の評価とつながらない純粋な閉域であることも。

    はたして高校演劇にも、入賞しそうな「王道」や「定型」といったものは存在しないだろうか?高校演劇関係者は自分の胸に手を当てて聞いて欲しい。特に顧問の先生方、入賞したいがために「王道」や「定型」を意識して作劇したこと、本当にありませんか?

(5)客寄せパンダと時分の花

    人気の若手アイドルやタレントが舞台の主役に抜擢されることも多い。そのような、容姿は抜群でも俳優としての訓練に乏しい人物の起用は、演劇界では「客寄せパンダ」と揶揄されることも多い。見た目のいい人物が、サーカスや遊園地のパンダ着ぐるみよろしく客を呼び込んで、訓練の行き届いた役者の真の芸を見てもらうということであろう。とはいえ、その「真の芸」の部分が、小劇場以降の混迷と相まって、演劇界ではズブズブになっていることは前述の通りである。また、見た目の良さという、訓練とはあまり関係の無いものが、役者としての抜き差しならない重要な要素として機能する点も、スポーツとは違う舞台芸術の特徴であろう。競技で結果を残さないスポーツ選手が容姿の良さだけで評価されることはまず無い。やはり「競技力ありき」だが、演劇の世界では「見た目ありき」があり得る。それもかなり多くの事例にわたって。

    世阿弥はその辺りの事情を「時分の花」と評した。若さが自然に発する魅力、といった意味だろうか。600年前の世阿弥も、若さやそれに伴う見た目の良さが客を惹きつける事情は十分承知していた。しかし、そのような「(若い)時分の花」は移ろいやすく枯れやすい。だからこそ、「時分の花」が咲いている内に稽古に精進して「真の花」を身に付けなさい、そうしないと息の長い真の役者にはなれない、というのが世阿弥の教えだが、ここで重要なのは、少なくともその場に限っては、「時分の花」でも十分に観客を魅了できるという点だ。さらに言えば、観客層次第では、「真の花」の真価は理解されず、「時分の花」のみを嬉々として観賞するような倒錯した事態も珍しくないだろう。

    このような事情から、「高校生らしさ」に立脚した高校演劇が、その舞台に限っては、「時分の花」として、審査員を含めた観衆に強い力をもって訴えかけることは大いに起こりうるのであり、このことも、「高校生らしさ」を再生産して止まないコンクールの構造の一因をなすであろう。

    とはいえ、高校生やアマチュア顧問とは違い、経験も知見も豊富なはずのプロの審査員の方々が世阿弥の教えを知らないはずは無いのだが。やはり高校演劇特殊論で、「時分の花」と熟知した上であえてそれを愛でたのか、あるいは、「時分の花」と「真の花」を見分けるのはそれほど難しいことなのか。

(6)演劇表現の本質に関わる「らしさ」

    林達夫と久野収の『思想のドラマトゥルギー』は演劇に関わる者必読の、最高に知的刺激に満ちた本だが、その中で、演劇とは観衆の心に既にある「定型」つまり「らしさ」を上手く利用しながら新しい表現を生み出す芸術だということを述べている。すなわち、一から新しいものを作ろうとしても上手く行かないことが多く、むしろ既存の「らしさ」をずらしたり皮肉ったり揺さぶったり二重の意味を重ね合わせたりする内に、観衆の心のなかの「らしさ」が気づかぬうちに変容している、そういう場合に上手く行く、というのである。

    これは演劇制作に関わったことのある人間はみな、実感として頷ける指摘ではないだろうか。学校祭や学芸会での出し物がほとんど常に皆がよく知っている物語のパロディであるという事実は、人々が本能的にその辺の事情を知悉していることを物語っていないだろうか。あるいは、世阿弥の能にもシェイクスピアの演劇にも、たいていの場合、原作に当たる典拠(本説)が存在する。一流の劇作家の場合にも事情は同じなのである。

   ことほどさように、演劇表現の本質には「らしさ」が深く関わっている。

   高校演劇の大会規定に照らした定義は、「高校生しか舞台の上に立てない演劇」ということになるだろう。本来、作品の内容は自由である。宇宙人だろうが化け物だろうが、高校生は何の役をやってもいい。しかし、実際の舞台を観た人はこういう感想を抱くのではないか。高校演劇とは多くの場合、「高校生が高校生役を演じる舞台」だと。

    決められた訳でもないのに、どうして多くの学校が、高校生に高校生役を演じさせるのだろうか。それは「らしさ」を舞台に現出させる際に、それが最もイージーで確実なやり方だからである。だって、本物の高校生が制服着てそこにいるんだから。これに優る「らしさ」はない(ここには、小説家の大西巨人が指摘した、実話であることを作品のリアリティの担保にし、虚構を虚構として自立させることのない悪しき私小説的伝統の残滓さえうかがえる。味噌も糞も一緒にして、これを「ポスト・ドラマ時代のドキュメンタリー志向」などと称してはならない。そう言えるのは、ドラマとの葛藤や闘争を経た自覚的な作り手のみである)。

(7)疑問や批判の不在、伝統や型の継承

    したがって、問題は「らしさ」そのものにあるのではなく、演劇の作り手が「らしさ」とどう向き合ったか、ということになる。先ほども述べたように、演劇が「らしさ」と関わるのは、それと批判的な距離や視座をもって接することで、新たな表現をつくりだそうとするためである。

    だが、近年よく見られるのは「らしさ」をいかに上手くなぞるか、という態度である。ここ数年、観劇の際に、私は感心しないが周囲の人々は感動していて大会での評価も高いということが増えてきたが、そういう場合にはほぼ例外なく、「らしさ」は疑われないばかりか、むしろ「らしさ」の上質な再現を目指して演じられていることに気づいた。上演に当たっての、そもそもの目的や前提が違うのである。

    もちろん、そういう作品の場合には、(a)「らしさ」がみなぎっている(生徒が本気で演じており迫力がある)、(b)新機軸がある、といった長所が存在するがゆえに評価が高いのだが、(a)はもちろん、(b)の新機軸も「らしさ」の上質な再現に奉仕するのが近年の傾向である。たとえば『アルプススタンドのはしの方』であれば、前半のコメディ部分はあくまで観客を後半の感動に誘い込むための導入であり、「あほらし。なんで野球の応援だけはせなあかんの?他の部活は無いのに。受験生やのに」といった風刺や批判につながることは最後までなかった。

    私が今日の社会や高校演劇を「反動期」と呼ぶ所以もここにある。このような既存の価値観や常識に対する疑問・批判の欠如は、同じ「らしさ」に向き合って作劇するとしても、先ほど(反動期の高校演劇1で)述べた、高校野球に対する態度の落差に明らかなように、確実に昔と今との差異を生み出している。それはパロディとパスティシュ(文体模写)の差、風刺と二次創作の差とも言える。現在の作劇は、高校演劇が明らかに創造期ではなく固定期に入ったことを示しており、そこには「今までにないものをつくり出したい」という創作理念よりも、むしろ「伝統や型の継承」を良しとする姿勢の方を多く見出せるのである。……ああ、そっか。道理でみんな、既存作品のアイデア・プロット利用の(グレーゾーンも含めた)全面解禁に、あんなに前向きだったんですね。納得、納得。でも、そういうただの前近代回帰・定型重視の作劇姿勢を、まかり間違っても「ポスト・モダン」などと言わないで欲しい。悲しすぎて、思わず失笑してしまうから。

(8)難しい作品は大人の入れ知恵?

    顧問創作の場合、作品が難解になると、「大人の入れ知恵」「高校生はやらされているだけ」といった、紋切り型の講評で落選にされる場合が多い。確かにそういう作品を顧問が主導して作っているのは事実だ。だが、一方で、「高校生らしい」と評価される作品にも同じように、いかに顧問をはじめ多くの大人の手が加わっていることか。現場の顧問としては嫌というほど実態を知っているので、プロの審査員の方が、そういう作品を高校生が主体的に制作していると思い込んでいるのを目にすると、気の毒で仕方がない。ここにも、高校生の実態を知らず、おそらく自分たちが高校生だった頃の記憶にもとづいて、あるいは「今時の高校生は未熟で、こんな難しいことを知っているはずがない」という先入観で、「高校生らしさ」が恣意的に線引きされている現実を指摘できる。

    だが、大人が「高校生らしい」と思う作品でも、顧問をはじめ作り手の大人が、少し昔の高校生像にもとづいて上手く夢を見させている場合もあれば、難解な作品でも、部員達が思いの外に理解して取り組み、その中で社会意識等を発達させる場合も存在するのだが、そういった現実は顧みられることはない。

    もちろん、高校生の実態を知らないことはプロの審査員の罪ではないが、一方で、先入観と予断をもって接することで作品を乱暴に裁断していることはないか。顧問と部員の協同作業の中で成立したはずの知的作品を、「大人の入れ知恵」として切り捨て、高校演劇の多様性や可能性を狭める結果となっていないか。そしてそれはやはり、「高校生らしさ」と称して、「(全ての)高校生は未熟で無知である」という偏見や差別を助長することになっていないか。当然ながら高校生の中にも知的に早熟な者はいるのである。

(9)既存システムへの最適化

   先ほど述べた、疑問や批判の不在とも関連するが、今日の社会では知性の役割が大きく変わっており、意味や目的を根源的に考える「人文知」が軽視され(何しろ文科省が文系学部廃止を唱える時代だ)、与えられた条件の中での最善手や最適解を見つける「工学知」のみが知性の役割と認められつつあると、批評家の大塚英志が述べている。そしてそれは、月並みな指摘だが、ジョージ・オーウェル『1984年』さながらの、工学的に管理された全体主義的世界に他ならない(『日本がバカだから戦争に負けた』)。

    そういう「工学知」タイプの人間は、たとえば受験やテストに際しても、それに疑問や批判を抱く暇があったら、少しでも良い成績を得ようと「勉強」する。最近の高校生の「真面目さ」も、多くの場合、このような既存システムへの最適化に向けた勤勉さに過ぎず、あり体に言えば、そこでは「勝ち馬に乗る」ことだけが目標である。

    高校演劇の世界に敷衍すれば、コンクールの是非や問題点などという面倒くさいことを(本稿みたいに)考えず、既存システムとしてコンクールがあるのだから、そこでいかに良い結果を出せるかに考えを集中するような姿勢のことを「工学知」と呼びうる。そういう人は、コンクールでかつて評価された「高校生らしさ」を「戦略」的になぞろうとしたりする。作品内部の新機軸も、あくまでその「戦略」に則って構成される、評価のための一要素に過ぎず、文学本来の自爆的な凶暴さや危険さは望むべくもない。また、不確定要素をできるだけ排除したいので、結果として既存システムの変更も望まない。疑問や批判は効率を落とし、場の雰囲気を乱すだけの否定的行為と見なされる。

    もちろん、昔からそういう人間は存在したとはいえ、これは、とりわけ現代社会において顕著にみられるようになった人間類型だろう。高校生や高校演劇がその影響を受けないはずもない。

    そう考えれば、青森中央高校の畑澤聖悟氏の高名な「制服かジャージ」理論(高校演劇では、どんな舞台のどんな役でも制服かジャージで演じることで、作品内容だけではなく作品形式というメタ・レベルでも、高校生の頑張る姿をアピールするべきだという戦略論)は、高校演劇の世界における、最も怜悧で透徹した「工学知」的な「戦略」と言える。

    あるいは、畑澤氏の『修学旅行』が明らかに愛媛・川之江高校の全国最優秀作『七人の部長』をふまえている等、畑澤氏はそれ以前から「戦略」的な作劇をされていたのだが。

    そして、もちろん、畑澤氏にとっては、訴えたいテーマや作品の意味を考える「人文知」が大前提としてあり、あくまで、それを伝える際の方法論としての「工学知」なのだろうし、そのあまりに透徹した認識は、逆に「人文知」的な凄みすら感じさせるのだが。そしてその「戦略」の凄み自体がむしろ、未熟さ・素朴さ・けなげさといった「高校生らしさ」の諸要素を阻害する要因として機能しはじめていないか、とも思うのだが。

    そういう事情を考えたことのない大量の亜流達が、いかに「高校生らしさ」を無邪気に再生産しまくったかについては、ここでは書かない。

(10)小まとめ

    ここまでで述べた「高校生らしさ」の諸要素を箇条書きでまとめてみた。

①まっすぐさ、ひたむきさ    ②(差別の対象としての)未熟さ    ③元気さ    ④素朴さ    ⑤外部から分断された閉域    ⑥時分の花    ⑦高校生は高校生役    ⑧「らしさ」の再現    ⑨疑問・批判の不在    ⑩伝統・型の継承    ⑪無知    ⑫けなげさ、頑張り    ⑬システムへの最適化    ※①~⑬=反動期

    どうでしょうか?みなさんの今後の「戦略」に少しはお役に立ったでしょうか。でも、やっぱり養殖物は、天然にはかなわないと思いますよ。実際、私もこういうこと書いてるから、コンクールで勝てないんだろうな、とも思うし。

    それに、当たり前ですが、プロの審査員も多種多様。結局はその方の見識次第であって、いくらでも例外は存在するのでご用心。

    真面目に書けば、そもそも、世の中にはコンクールより大事なものが山ほどある。その大事なものが反動期の現在、あまりにも無惨に破壊されつつあり、そしてその破壊は、もはや取り返しがつかない地点まで進んでしまっている。今も、着々と。

    そう実感していない人間の作品が、いかに世評が高かろうと、私はそれをどうしても「表現」とは思えないのである。悪口や嫌味ではなく、それが私の生の実感なのだから仕方ない。これを書く私は、賽の河原で石を積む気持ちなのだ。

(4に続く)











    



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