父を

春、父が死んだ。

仕事のはずの母が帰ってきて、酒を飲み、震える声で言った。「お父さん、死んじゃった。」と。

夕方、私たちがほんの少し前まで暮らしていた家に向かった。祖父母に「ここにいるから。」と案内された場所は、私たちが10年前寝食を共にした場所だった。
階段を上ると、いつだったか、親戚のおじさんがなくなったお通夜で見たような白くて長い箱がそこにあった。
さらに1歩進む。
隣で母が泣き崩れる。
父の顔が見えた。何年ぶりだろうか。わからないのに、この寝顔が父だということは、よくわかる。最後に交わした言葉を思い出そうとするが、全くだった。それでも、よく見た事のある寝顔で、顔色の悪いものがそこにあった。

父と母は離婚調停中だった。学費、食費、生活費の一切を払わず、挙句不倫までしでかした父を擁護するすべはない。母に着いていき、新しい住所で過ごし始めた。苗字も、あと少しで変わりそうだった。そんな春だった。
死因は自殺ではなく、動脈のあれによるあれらしい。腰の痛みで自分で救急車を呼んだ父は、救急隊の到着を待たずにひとりで逝ってしまったそうだ。
私たちと離れてから父は、元の場所から2駅離れて、最低限の家賃で、エアコンも付けられないようなボロアパートにひとりで住んでいたらしい。直接的な死因は「急死」と呼ばれる突発性のものらしいが、私はどうしても、私が殺したという意識が消えずにいる。

父が仕事で上手くいった話をほとんど無視した、父が私の好きな歌を歌っているのを途中で遮った、父が1人でコンビニの傍で座り込み酒を飲んでいるのを無視した。「すごいね」「ありがとう」「どうしたの?」「一緒に帰ろう。」そんな言葉が求められているのを無視して、私は生きていた。
何故だろう、その理由も、そのときでさえ私は父のことを嫌っていた訳では無いことも、今となってはもう説明できない。誰に説明したって、何の意味もなさない。
私の成人式の頃、すでに父と母は離婚調停中だった。当日、切手のない手紙が投函されていた。「ごめん、おめでとう。」の文字と、5万円だった。父だった。
私は泣きながら5万円を母に投げつけ、外の封筒は丸めて捨てた。何がごめんだ、そんなことを言うなら早く帰って、私の晴れ姿を見に来て欲しかった。それにこんな5万円じゃ何にもならないと、怒りに身を任せていた。そんな私の行動を母が伝えたのかどうかはわからない。
けど、この時の父にとっては、この5万円が全力で私を祝うすべだったことを、私は想像できずに、それを捨てた。

彼にとって、私たちと離れてからの時間がどれほど長く感じたものか、想像できない。どんな気持ちで眠って、起きて、眠っていたのか。何を楽しみに、何に笑って生きていたのか。最後に何を感じていたのか、全く分からない。父との間に空いた空白が埋まることの無いまま、父は骨になり、今、私たちと暮らしている。今更おはようと声をかけてみたり、ただいまと言って、ご飯を一緒に食べたり。
消えないもやが、父を見殺しにし続けた私への罰なんだと思う。あなたに孤独を押し付けて、その首を絞め殺したような感覚を、ずっと握りしめていく。やるせないという言葉はすごく便利だ。

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