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自宅を売りました

とはいっても、住所不定の車中泊ワーカーになるのではありません。石川県にある空き家になっていた自宅を売ったというお話です。

家を建てたのはバブルの余韻冷めやらぬ1993年、まだ20代でした。当時は石川県のプロダクションでテレビカメラマンとして働いていた頃で、東京へ行くなどとは全く考えもしていなかった。人生一寸先はわからんものです。

友人の間でなぜか家を建てるのがプチブームになってたり、もうこれ以上下がらないと言われた金利3.6%が長く続いていたとか(あまりにも無知でした)、要するに地方都市のマイルドヤンキーのアッパー層は20代で家を建てたんですよ。

子供二人を育てるためと、自然豊かな(ちょっと豊かすぎる)郊外の住宅地で、2階の窓から市街地が一望できる眺望だけは素晴らしい立地で、間取りも子供二人と夫婦で住むのに最適な間取りになってます。

住んでいたのはたった6年。予定通り2人目の子供が生まれたのですが、予定外の転職でサイボウズで働くことになり、船橋の地に移ったのでした。それから20年、何人かの家族に住んでいただき、その間に造成地の地盤がゆるくて5cmほど南側が傾いてしまい、ここ3年は貸すこともできず空き家バンクでひっそりと買い手を待つ日々でした。

支障がある部分は傾きだけ。高台で湿気嫌いの私が基礎に防水シートを張り巡らしたので、腐ってもいないしシロアリもなし。雨漏りももちろんない状態で、自分が住んでいたらジャッキアップで傾きも直すところですが、遠方ではいかんともしがたく、「傾いているんだから取り壊せ!」という役所の担当の声をスルーして(今でも腹立つ、床下潜って見てみろ!)待った結果、還暦前の職人さんが役所の担当を寄り切って「自分で直すからこのまま買うわ」ということで、めでたく売却となりました。

そして、今日契約と引き渡しを終えたところです。

売れた価格は建てた価格の1割。いやはやなんともです。30代の頃、住んでもいない家のローンに当時の中小ベンチャー企業の薄給で苦しんだ身としては、もう二度と借金で不動産は買うまいと固く誓いました。

将来、金沢に帰るつもりがないわけでもないですが、うちは長男長女なので、両方とも実家があり、また帰るとしたらどっちかの介護のためという線が濃厚で、あと子どもたちはほとんど記憶のない場所には当然に帰らない(どころか日本にいるかも怪しい)ということで、諸々の事情を考えるとこの家に住む可能性は限りなく少ないのです。

今から考えても、将来の見通しもない中で、なんであんな高額な買い物をしたのかほんとに不思議なんですが、当時は結婚と家を建てるのはもう理屈じゃなかったんでしょうね。人生で当然のように踏まなければいけないマイルストーンであり、早く踏んだほうが勝ちみたいなイメージがあったと思います。

子供も大きくなって家から出ようとしています。そして、今はキャンピングカー(走る執務室)を自作までしてしまい、もう子育て拠点としての家は必要なくなりました。

東京で働くようになって、日帰りで日本全国へ出張しました。講演の場合だと旭川でも、那覇でも日帰りです。羽田から日帰りできない場所なんて、人口5万以上の地方都市ではほぼないと言っても過言ではありません。

時代の流れとはいえ、たった25年で90%も価値が下がった家を改めて見上げていろんな思いがこみ上げますが、「これで自由になれた」とも同時に思います。

地方はもはや空き家だらけです。過疎地へ行くと50万円で500坪の8LDK買いましたとか、200万で山付きの家買いましたとか、びっくりする話を聞きます。必死こいてローンに追いかけられたあれは何だったんだろうという気もするのです。

家族の帰る場所が不要とは思いませんし、実家は私にとっては今でもなにかの拠り所ではあります。でも家を建てることが人生を決定づける大きな決断である時代は終わったのかなと思います。

その気になれば、全国各地に50万の空き家を5件買ってもいいわけですからね。

まだこの先順調に行けば30年くらい人生は残っているわけですが、終の棲家を見つけるのはまだ早すぎる感じです。住むということでも何か面白い実験をしてみたいとちょっと思ってます。

今は寄付ページへの寄付をお願いしていますが、こちらも気に留めていただきありがとうございます。 この先どうなるかわかりませんが、サポートいただけましたら、被災地支援活動がおちついたら自分自身の生活再建に使わせていただきます。