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ウィーンまんぷく日記(プライドパレードを歩く) 80-81/369

 ウィーン滞在中、ちょいちょい社会運動っぽい催しに参加している。フィールドノートというレベルではない自分のアイデアや心境を書き留めて、あとで参照する用に使えればいいと思ったのだが、先日参照しようとしたらそもそもいつ何をやったかひと目では分からなくて探すのにめちゃくちゃ苦労した。そのため、ちょっとわかりやすいタイトルに変えてみた。

 ユーロプライドが2週間ほどあり、この時期はトラムにも虹色の旗がついていたり大学もレインボーである。土曜には市庁舎前で大きいイベントがあったので行ってきた。こちらに来てから、割と都心に住んでいることもありよく社会運動めいたイベントやデモに行く。以下の動画はクライマックスのステージだが、ストーンウォールの反乱に参加した人がニューヨークから来てスピーチをしていた。オーディエンスも大盛り上がりで、集合的記憶の継承!という感じ。

 実は社会運動イベントに歩いて行けるくらい都心に住んでいたのは初めてのことではない。都内の院生時代でも、国会前や官邸前に歩いていける感じのところに住んでいた。時期的にも2011年の直後で、頻繁に行ってもいいはずだがほとんど行かなかった(その頃から社会運動研究をしていたが、さすがに行かないと言うのも憚られたので、変な表現だが「こっそり行かなかった」)。この理由は今にしてわかってきたので後述するが、なんでウィーンに来てからこんなに軽く行けるようになったのかと不思議に思っていた。
 大きいのは自分側の要因で、端的に言って当該社会にいまのところ長くいるわけではないよそ者であるからだ。限定された期間だからこそレアに感じるのもあるし、よそ者だから物見遊山感覚で「許される」と感じた私の小ずるさはあるだろう。もう一つは、今回の催しが顕著だが、周囲にそうした悩みを抱えている人が(可視化されたこともあり)多くなり、それで何となく行かなくてはという気になった。これはメーデーとかも同様で、自分自身あるいは周囲に当事者や問題に近い人がいると行きたくなる。
 ただ、ここに逡巡がないわけでもないというか、例えば私の友達が「俺の友達に富永ってやつがいて、お世辞にも見た目がよくないからかわいそうだと思って、ルッキズムに反対するデモに行くんだ!」と言ったらぶん殴るだろう。マイノリティ性のある友人知人に共感する、という私の参加はそれと何が違うのか少しだけ考えた。他人がどうこう、というより自分側だと思い直した。自分の気持ちとして、連帯の意を示したくなったから行ったのだ。

 あとはウィーンと東京のデモの差も大きい。といってもその要因のほとんどは警察(機動隊)や空間的な限界に起因するので、デモやイベント主催者のせいでは全くない。
 これはウィーンに限らないことだが、欧州の都市部で参加したデモは何がしか広場があって、そこで集まって小一時間ほど集会してからそのへん歩くという形式が多いように思うが、広場のキャパがそうとうあるのと、何もしない・ダラダラすることを許される(下のようにもはやピクニックのような感じの人も入る)ので、自分もやっていいかなという気持ちになる。ただ、例えば新宿アルタ前でも国会前でも京都市役所前でも「寝転んでスピーチを聞く」というのは空間的にも規制的にも許されないだろう。
 こういう構造は参加者の姿勢にも影響を与えると思う。つまり、たとえ物見遊山であっても遊び半分であっても「ガチな顔をしてきました」という立場を知らず知らずのうちに要請される。もちろんガチでないデモがあるのも知っているが、機動隊に囲まれておふざけというかマヌケなことをできる時点で相当肝が据わっていると人は思うかもしれない。
 以前、デモに参加している研究者の方に、社会運動に関心があると話したら「こちらは命懸けでやっているので」と言われ、「だったら自分が行くのは失礼だしやめるか……」と思ったことがある。今回の滞在で、自分が運動に参加しなかった理由のなかに「真剣にやってる人に失礼」という感覚は結構根強くあるのではないかと気づく。
 機動隊との衝突はガチ勢を生み出さざるを得ないし、ガチ勢はガチ勢度を競う方向に行くというのは、近年のActivist Identity研究がよく示している(この研究についても過去の日記で言及したがどのへんで書いたか忘れた)。そういう感覚を運動参加者の方とのやりとりで感じ取ったからこそ、このへんの研究に強く惹かれたのかもしれないと感じる週末だった。

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