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ウィーンまんぷく日記 36/369

 5月1日なので、メーデーのイベントに行った。昨年はアナキスト・アウトノミスト系のデモに行ったということもあり、今年は市庁舎前で行われるSocial Democratic Partyの大規模なイベントに。写真はそれですが、人数、どれくらいいるんだろう。1万人くらいかなあ、周囲にばらばらと人がいて出たり入ったりしているからパッと数えづらい感じ。とりあえず規模が大きくて、セットも野外ライブか?と思うくらいしっかりしている。言葉は分からないのが残念だが……。みんな赤の小物を身に着けていて、プラカードやバナーを持っている人は全体の1割もいないくらいだが、不思議と統一感がある。あとは時折、ロゴ付きの風船をもっている人がいて(全体の2割くらい)、これがアクセントになっている。しっかりめの出店も出ているので、ご飯を食べることもできる。

 もうひとつ、Labor Party(共産党)のイベントを近隣でやっていたのでそちらも行く。こぢんまりした雰囲気で、小規模なライブとかスイーツ、バーベキューの屋台が出ていたりした。グッズなどが売られていて、こちらのほうが自分のイメージする「社会運動」的な雰囲気がある。

 昨年行ったアナキスト・アウトノミストのデモはどちらかといえば反レイシズム、反ファシズム、反資本主義に対するコールなども多くて、難民・移民問題に関しても扱っているマルチイッシューのデモだった(今年も弾圧のせいで亡くなった難民の方に対する追悼デモだったようだ)が、今回のイベントは、配布物や少しだけお話した感じを見る限り労働者のイベントと言う感じだった。

 あまり社会運動の話ばかりしても、それは研究でやれよという感じなので別の話にしよう。こういう一日だったから、自分や周囲の人の労働について考えるので、同行者ともそんな話をした。
 最近気になっているのが、若い人の「副業」のことで、それは私自身も「副業」にそれなりの時間を割いているからだと思う。ダブルワークというほどでもなくてもある種のすきま時間でお小遣いを稼ぐ人がいる(というと失礼か)というのは、ウェブニュースの記事などでもよく見る。

 あまり共感されないけれども、個人的にはこういう仕事をするたび、昨日書いたようなこととは違う意味で「後ろめたさ」を感じるし、ある種労働疎外のようなものを感じなくもない。「好きなことを仕事にすると苦しくなる」みたいな感情のもっと微細なレベルのものだと思うが、なんでもお金になっちゃう辛さを、副業をしている若い人は感じないのかな?と思うことがある。それもやっぱり個人化しているから共有できないのだろうか?
 自分の場合、書籍や新聞やウェブの記事を書く、社会運動だけでなく自分の体験や漫画や演劇について書く。講演や対談、講義が記事になることもあるし、これから本や記事にしてもらってもよいかなという講演や講義もあるし、漫画を読むと「これについてもどこかで書きたいな」と思ってしまう。もちろんそれは研究してきたことの実践になっているし、自分自身考えをまとめたい、面白みがあるからやっているわけであってお金のためじゃない。でも、仲間うちで面白がったことが「なんでもお金になっちゃう」ことの何とも言えないつらみみたいなものを感じなくもない。
 例えばだけど、自分はただ面白がってきぐるみを着ているだけなのだが、いつの間にか「大学の先生も大変ね」とか、そういうある種の「評価」みたいなものに巻き込まれている憂鬱が近いのかもしれない。この日記も自分のために書いているのだが、「多くの人に読んでもらうためには」みたいなtipsを出されるとちょっとだけイラッとすることがある。ようは「評価」がきついのだろうか??うまく言葉にできなくてすみません。

 社会運動に従事している人でも、インフォーマル経済圏を拡大させるというか、友達や近隣のコミュニティとコネクションを活用して、自らのスキルや好きなことを活かしながら自営業を行う人は増えてきているし、そういう試みを書いた本はとてもおもしろく、ライフスタイルを通じた社会運動として楽しく読んでいる。その人たちは、自分のスキルや友達との関係が「お金になっちゃう」怖さや苦しさはないのだろうか、と考えたりもするが、おそらくその時に、「社会運動である」という政治性というか、理念というか、そうしたものが効いてくるのではないかという気もする。

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