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『みんなの「わがまま」入門』おわりに&はじめに

 4月末に私の三冊目の本、『みんなの「わがまま」入門』が刊行されます。この本は何より、これまで社会運動をしている人からの聞き取りを経て、私の「社会運動」(=この本では「わがまま」と敢えて呼んでいます)になればと思って出したものですから、あんまり宣伝、宣伝というのも、資本主義の流れに乗っているようでいささか抵抗もあるのですが、一方で、これまでお力になってくださった編集者さん、中高生・大学生の方、高校・大学の先生方、何より、これまでお世話になった社会運動に関わる方々のことを考えると、自分もこの本を広げる努力をする必要があると思うようになりました。

 そこで「はじめに」と「目次」はすでに左右社さんのサイトでも公開してくださっていますから、少し奇妙なようですが、私の方で「おわりに」の、最初の何ページかを載せることにしました。
 noteというフォーマットですので、そのまま文字で貼り付けるのがいいと思ったのですが、私の「おわりに」はいつも照れくさいので、画像にしています。こんなまだるっこしいことをするのは、やっぱり恥ずかしいからで、でもある人(あるいは、ある人たち)に読んでほしいからで……。ややこしい人間の、ややこしいこだわりで、すみません。


 これだけ置いていきなり終わるなよという感じもするので、「はじめに」も改めて載せておきます。

はじめに

 この本は、「わがまま」というツールを使いながら、言いづらいことを言いやすくするための本、そしてそこから、社会や政治といった「遠い」ことがらを身近な視点から見ようとする本です。
 でも、これを読んでいる多くの方は、なぜ「わがまま」について言ったり考えたりすると、社会や政治のことが身近に感じられるようになるのか?と思うでしょう。ここではそれについて、すこしだけ説明しようと思います。

 私は、国や会社、学校に不平や不満を訴えて、人の意識のあり方や、その場のルールや制度を変えようとする行動、いわゆる「社会運動」と呼ばれる活動を研究しています。具体的には、路上で主張をして歩く「デモ」、インターネットや紙で署名を集めて提出する「署名活動」、社会問題について勉強するシンポジウムや学習会もあれば、フェアトレード活動などもそれにあたるかもしれません。
 そこで行われる主張には、たとえば子どもの貧困をなくそうとか、賃金を上げよう、就職や入試における性別による差別をなくそう、外国人労働者の待遇(たいぐう)をよくしよう、あるいは住んでいる地域でのマンション建設に反対しよう、といったさまざまなものがあります。こうした主張に基づく行動は、これまで多くの人々の意識を変え、法律などの制度を変えてきました。社会運動は、私たちが生きやすい社会をつくるために、絶対的に必要なものです。

 ただ、現代の社会には、「社会運動が、なんとなくイヤ」という人が少なくありません。おそらくその根底にはふたつ理由があります。ひとつには、「政治的なことについて考えたり、話題にするのが、なんとなくイヤ」というもの。もうひとつには、「政治的なことについて考えるのはいいけど、社会運動(あるいは、社会運動をやっている人)そのものが、なんとなくイヤ」というものです。 
 「社会運動そのものが、なんとなくイヤ」という人にその理由を聞いたときに、社会運動が「わがまま」だから、と言われたことがあります。「わがまま」という言葉でなくても、「怖い」「中立じゃない」「自己満足だ」「クレーマーじゃないか」など、社会運動に対する批判というか、ネガティブな言葉は数多くあります。
 社会運動の主張に賛同していたとしても、政治に対して批判したり、社会に広く自分の意見を伝えようとすると、それは「わがまま」だ、自分が悪い目に遭っているのは自己責任なんだから、それを社会のせいにするのはお門違い(おかどちがい)じゃないか、と言われる傾向が、今、私たちが生活する社会ではとても強いです。
 とくに、中学生や高校生、大学生に社会運動のお話をすると、必ずこのような反応をいただきます。
おそらく、これを読んでいる学生のみなさんも、学校や部活、塾や予備校に対して不満や主張があったとしても、そんなに簡単に伝えられないのではないでしょうか。「みんながまんしているのに」「迷惑だからやめろ」といった形で「わがままなやつ」扱いされてしまうし、それで周囲から浮いたり友だちから変に思われるのも耐え難いことでしょう。

 社会運動は「わがまま」だ。
じつは、その感情は、社会運動を研究している私にすら根強くあります。
 私は社会運動をしている人に聞き取りをし、人々が社会運動を行う理由を分析するのが仕事です。10年間にわたって、世界中で、若い人にもお年寄りにも、一度だけ参加した人にも、もう何十年もやっているという人にも、ほんとうにたくさんの人にインタビューをしました。それでも、どうしても聞けなかった一言があります。
 それは「なぜあなたは、『わがまま』と思われるのが怖くないのか?」という一言でした。もうすこし自分に引きつけて言うなら、「どうして私は、こんなにも多くの人と話をして、仲のいい友だちもできたのに、それでもまだ『わがまま』と思われるのが怖いのか?」というものでした。
社会運動をしている人は、「とにかくやってみよう」「声をあげてみよう」と言いますが、私は10年間、社会運動について「見てるだけ」の生活を続けながら、「それができないから困っているんだよ」という思いを抱いてきました。
 じゃあ、何が私たちに社会運動を嫌わせ、社会や政治に対して声を上げ、「わがまま」を言うことを妨(さまた)げているのでしょうか。「わがまま」をはじめとした社会運動に対する悪口の背景をひもとくことで、それを明らかにしようと考えたのが、この本です。

 私は社会運動をしていないから、「社会運動をしていないのに研究しているのか」と言われることもしょっちゅうです。
 でもどんなに批判されても、社会運動をする人々のそばを離れようとは片時も思いませんでした。なぜかというと、彼らと一緒にいればいるほど、自分には「遠い」と感じられていた政治的な事柄や社会の抱える問題が、身近になっていくのを感じたからです。
 一緒にご飯を食べるとき、割り箸を使わない。恋バナをしていても、自分や身近な人の恋人に対して「彼氏」や「彼女」といった言葉を使わない。なるべく深夜にはコンビニやファストフード店に行かない(それはどうして?と思われた方は、ぜひこの後を読み進めてください)……。
 自分たちの生活で選ばれたり、使われたりしているものが、政治や社会といった、自分とは遠くて無関係に思えた世界とたしかにつながっていることがわかりました。彼らから学んだことを家や大学に持ち帰って、これも社会運動になるかな……と、自分の部屋や教室のなかで、家族や友だちと、自分の生活の範囲でおさまるような「わがまま」、言うなれば「プチ社会運動」を試すのが、何よりも楽しかったのです。
 おそらく「社会運動が、なんとなくイヤ」と思いつつこの本を手にとった人のなかには、政治や社会をどこか「遠い」ものとして捉えている人も多いのではないでしょうか。納税や投票といった形で政治に関わっているはずの大人も、政治経済や社会科を学校で学んでいる学生も、それは同じだと思います。
 でも、たしかに「政治」も「社会」もみなさんの足元に、恋人との間に、学校のなかにあるのです。あなたが学校の先生や職場の上司、同僚や友だちに対して感じている不満をひとつ想像してみてください。自分ではない特定の人がえこひいきされているように見えてモヤモヤするとか、会社や学校の理不尽なルールにイライラするとか……。
 これらは、一見政治的でも社会的でもなく感じられるでしょう。
ただ、このような不満やモヤモヤに社会や政治が埋もれていることが、社会運動という「わがまま」について考えているうちにわかってきます。また、こうした不満に対して「わがまま」を言う、つまり不平を言ったりを言ったりすることが、何がしか社会に関わることであり、政治に働きかける「芽」をつくるものでもあるのです。

 不平や不満を訴えることは、私たちの社会において、苦しみや痛みを一方的にだれかに押し付けないために、絶対必要なものです。
 これまでも多くの「わがまま」が政治を変えることで、社会を生きやすい場所へとつくり変えてきました。じゃあ、どうすれば私たちは日々感じているモヤモヤやイライラを超えて、自分を解放し、だれかを助けられるような「わがまま」に優しくなることができ、「わがまま」を言えるようになるのでしょうか。
 この本では、その手がかりをお伝えできたら、と思います。

 ある中高一貫校での講演をきっかけに、この本を執筆しました。ですから本書のなかの「みなさん」は多くの場合、中学生や高校生に対する呼びかけです。また学生生活にちなんだたとえを多く取り上げています。とくに「わがまま」を言いづらい環境で生活しているだろう学生に読んでもらえれば、と思って書き進めたものですが、同じように感じている大人の方にも身近に思ってもらえれば、とても嬉しいです。
 教科書に出てくる小説や評論文のように、じっくり読み進める必要はありません。話がふくらんだり、複雑になってきたら、各章末にある「ポイント」や、太字になっているところを読んで、わかった気になってもらっても全然かまいません。
 4時間目と5時間目では、こっそり「わがまま」を言う方法、あるいはがっつり社会運動をするやり方を説明しています。もう社会に不満があって、今すぐに「わがまま」を言ってみたくてたまらないという人は、4時間目から読み進めてみてください。

 この本では、「わがまま」を「自分あるいは他の人がよりよく生きるために、その場の制度やそこにいる人の認識を変えていく行動」として定義します。でもこの定義は別に忘れてもらっても構いません。
 「わがまま」というと、「自己中(自己中心的)」「自分勝手」というイメージがありますが、社会運動の過程はとてもクリエイティブで、わくわくするようなこともたくさんあります。
 自分がわくわくしながら不満を解消できて、同じような苦しみを抱いている他の人を助けられるなら最高じゃないでしょうか?

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