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ウィーンまんぷく日記 25/369

 朝から論文。ツーリズム研究の論文はまだ自分には面白さがよく分からないので、つい逃避してしまって自分の好きな分野の論文ばっかり読む。Activist Identityやら、burn-outやら、社会運動論のある意味でミクロな研究は本当に読んでて癒やされる(記述的すぎるところもあるが)のでそればっかり読んでいた。
 国際誌で査読や書評をしてみると、苦手な英語を使った論文でも勘所がわかるというか、多少読みやすく感じる。これは、昨年ずっと査読と書評でしか雑誌に関わってなかった言い訳だけど……。査読する側になるだけじゃなくて、きちんと投稿しましょう!(自分への戒め)
 
 今日読んだ中では特に、Craddockという人の最近の論文はとても面白く、読んだはしからツイッターに読書メモを書くくらい良かった。重要なご示唆も、研究者の方、実務家の方(という表現もあれだけど)からいただいて、こういうことをツイッターに書くのもいいなと思った。

 この論文の面白さは、調査のバックステージも割と書いていること、もう少し詳しく言うと著者が度々登場していることでもある。この記述で少し思い出したのは、昨晩やったインタビューデータの直しのことだ。
 労働お悩み相談なので、「語り」口調で修正する。これは語りおこしがベースになっている新刊もおんなじ。ただ、語ったことを文章にしても「語り」にはならないので、その呼吸や間が伝わるようにかなり演出を加えなくてはならない。ただ、これが慣れていないと(&文才がないと)相当照れが出てしまうので、私のような凡人は結果としてライターさんの作ってくれたものを多少微修正することになる。
 昔、知り合った編集者さんが「いい書き手の方には文体がある」と仰っていたが、「語りを再構成する」というのは最上級の文体だと思う。

 ちょっと話がズレたけど、論文ばっかり読むのもあれなので適宜休憩を取る。イースターでどこも休みなので、家から近くて休みではないOBERLAAへ。写真はOBERLAAのケーキです。
 『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』イースターの昼下がりの陽気の中で読むにはハードと言うか、とにかく暗い。「貧乏人は怠惰」みたいなバッシングは本当にここ十数年で(もっと前から?)ありふれたものになったと感じるが、どのようにして「怠惰」に陥っていくのか、その過程がひどくよくわかる。
 帰って、Julius Meinlで密かに買っておいたカレーと、日本から持ってきたサトウのごはんを組み合わせてレッドカレーを作り、食べてたら家主さんが一日早く帰ってきた。周りの皆を見習って「早く帰ってきてくれて嬉しい。今日はずっとひとりで寂しかった」と伝えた。自分はとりあえず、伝えられて満足した。少し話をしてから『麗しのサブリナ』を観た。ヨットのシーンと、車のシーンがいい。不器用なお兄ちゃんの詩的な言葉がなんとも言えない。

 ここからは自分用のメモで、後でもう少し考えて加筆します。
 献本が届いて、後書きを読んだ友人から連絡が来た。「そんなに学生さんを傷つきやすい存在として捉えるのもまずいんじゃないか。仮に富永が何かしたとしても、それを踏まえて判断したり行動するのはその人で、それを『傷つけた』と思うのは考え過ぎではないか」という話だった。どうだろう。実際そうだったとしても、私が「考え過ぎ」と開き直っては絶対いけないんじゃないか。
 今日紹介したCraddockの論文には、苦悩する運動家が、運動内では誰にも話せない自らの悩みを筆者には打ち明けられたという記述があった。そういうことを自分も言ってもらった経験があって、それは直接行動をしない私にとっては確かに有難く、救われるものだった。ただ、救われたからといって、そこに開き直っては絶対いけないんじゃないか。
 観察者がその観察を表に出す以上、たとえ何かのやり方で貢献できたとしても、その過程では必ず何かを奪っているんだから。

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