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ウィーンまんぷく日記 24-25/369

 朝起きて、編集者さんと本についてのやりとりをしたりする。献本もちょっとずつ届いているらしく、ツイッターなどでご紹介いただいていた。ありがとうございます。
 ここのところ、編集者さんのご尽力に対して、また版元さんに対して十分な貢献ができないのではないかと思ってここのところずっと悩んでいたし、ナーバスになっていた。ただ、先生方のツイートを拝読して、何となく思ったことがある。
 つまり、本はたぶん自分のために書くんだろう。「若者」とはもう言えなくなり、30歳になるのが怖くて『社会運動と若者』を書いたように、ここ数年間の人々との出会いが楽しくてしょうがなく、勉強になったこと、楽しかったことをまとめたかったから、だから編集者さんと一緒に『みんなの「わがまま」入門』を書いたのだ。

 大学に行くと、聖金曜日にもかかわらずオフィスの人たちがいた。半分休み気分という感じで楽しく過ごす。スーパーが早く閉まりそうなので、同じオフィスのTAさんと買い出しに行ったりして、いろいろお話できたのも良かった。普段から迷惑をかけないように、かけないようにとしているのを察してか、少しでも困った顔をすれば先回りして助けてくれるし、積極的にいろいろなところへ誘ってもくれる。この日は一緒にカフェに行った。一方で気を遣わせないようにか、簡単な日本語の質問をしてくださったりして、私ばかりが恩恵を受けるのではないようにしてくれる。互酬性でいやすさを作ってくれているというか、とにかくありがたい。

 ジャーナルの論文を読む。今まではジャーナル横断的に読んでいたが、今日は一つのジャーナルに集中。修士課程の頃から好きで、投稿もしたし査読もしたその雑誌を、私はなぜ好きなのか、ようやくわかった気がした。
 これを読むと、自分が肯定されている気がするのだ。運動に参加できない、社会運動家になれない自分が。かといって社会運動研究者ほど「賢い」姿勢や態度を堂々ととれない自分が。
 率直に言って、日本の社会運動も、社会運動論の研究会も、どこかマッチョで苦手だと感じた。なんでどこでも「ああ」なってしまうのかが、すごく気になる。なんで自分はデモに参加できないときに「すみません」と言ってしまうのだろうか。なんか発言が多くて、頭の良さそうなことを言っている先輩や先生、活動家の人々が「偉く」見えてしまうのだろうか。できる範囲で運動をすればいいし、できる範囲で研究をすればいい(実際、ケア労働や職場・家庭の都合で研究や運動ができない人はたくさんいる)だけなのに、なぜそれでも私はずっとできない自分を責め続けるのだろうか。
 そういう答えがこのジャーナルに、あるときは量的データとして、あるときはインタビューの語りとして、何より膨大な先行研究の蓄積として載っている。だからきっと好きなのだろうと思った。

 ちょっと没頭しすぎて、このままでは時間も忘れてしまうと思ったのでいったんクールダウンしようと思って家に帰る。ご飯を食べて、知り合いの方と通話するチャンスがあったので、つい誰かに日本語で聞いてほしくなり、読んだ論文のことをペラペラ喋ってしまった。こうなるからダメなんだよな、反省……。

 翌日(きょう)は無理矢理にでも休もうと思って、好きなだけ寝て、イースターマーケットに行ってきた。イースターでおなじみのたまごやBIOの食べ物、ハンドメイド雑貨があったけれど、蜂の巣だけ買ってきた。写真は、イースターマーケットのたまご売り場のものです。帰りに近くのパークハイアットでお茶をした。テラス席が良かったけれど、屋内で陽の光を楽しむのもすごくよかった。

 家主さんが月曜日にお帰りになるので、せっかくだからイースター気分でお迎えしようと思って、普段買わないお花を買って抱えていたら、知らない人からお花をさらにもらった。イースターマーケットを歩き回って思いの外疲れてしまったのか、友人と通話して、そのあと4時間くらい寝てしまい、いま起きた。これからインタビュー原稿の直しをしよう……。



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