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フランクフルトまんぷく日記 41/369

 どうでもいいのですが、5/24から6/2まで日本に帰ります。5/24-25名古屋、25-26東京、27-28関西、28-31東京、31関西、1関西or都内、2関西という感じになりそうですけど、お会いできるひとはぜひご連絡ください。

 滞在二日目、フランクフルトのホテルで起きる。このホテル、フランクフルト中心にある同名ホテルと間違えて泊まって、ちょっと寒々しくてゲンナリしてたのだが、ジムは独り占めできるしご飯も美味しいので良かった。願わくばもうちょっとバスタブの掃除を……。
 散歩と見学をしつつ、最終目的地はフランクフルト中心にある同名ホテルのアフタヌーンティー。でも、さすがに12時頃からアフタヌーンティーセットが提供されているわけではなく、仕方ないのでクレームブリュレを食べた。

 時間が来たので、ICEでフランクフルト空港へ。空港、とにかくでかいので、着いてからめっちゃ歩く。アフタヌーンティー中に手紙を書いたのだが、まあいいや、これはウィーンから出そう……。ちなみに写真は、ホテルから駅に向かうまでに見たウィメンズマーチの看板。やるぞ!という感じでなく、ちょっと気の抜けたようにも見えるイラストが良い。

 帰りの飛行機で、昨日お話したことを反芻していた。印象的だったものを挙げると、社会運動をする若者や学生が、自分の政治的立場や信念のあまり、自分にある可能性(就職や社会での活躍など)を縮減させてしまうのを寂しい気持ちで見ていた。しかし、富永もそういうところがあるのでは?というご指摘は、目からウロコだった。

 具体的には新著の話なのだが、ポップな表紙も、表紙に肩書が書かれることも、「社会運動」とつかないタイトルも、はっきり言えば抵抗があった。相当悩んでお受けした仕事だったこともよく覚えている。
 なぜ抵抗があったのかと言えば、自分が思う「学者の仕事」ではなく、一般書だからこそある程度「売る」という価値観が入ってくる。その「売り手」になるのも社会運動を研究する人間として違和感があったからだ。ただ、それが、社会運動に携わる若い人たちがやっていた「自分をカテゴライズする」こととどう違うのだろうかと言われたら、そう違わないだろうなと思う。

 ウィーン空港にたどり着き、CATで帰って(最近タクシーよりももしかしたら早いかもと思うようになってきた)、また白アスパラを茹でる。もう白アスパラが美味しすぎて、白アスパラを茹でるロボットと化している。
 自分の研究がもうどうやったってうまく進まないので、人の博論を読んで、その人が思うさま研究対象や理論を楽しんでいるところをみて、自分もポジティブな気持ちになろうとしている。今日は、これまで事例部分しか読めていなかった(すみません)、松井広志先生の『模型のメディア論――時空間を媒介する「モノ」』(青弓社)を拝読した。未来を先取りするモノとしての戦前の模型、戦争との結びつきが脱色され、娯楽色が強くなっていく戦後の模型、「作る」という性格が薄まっていき、受け手としての関わりが強くなる模型(フィギュア)……と、各時代の人との関わりによって「模型」がメディアとして多様な色彩を帯びるさまは、いち模型好きとして読んでいても非常に面白い。

 本として読むか博論として読むかによって評価が分かれる論稿とも言える。この点では、メディア論という領域や全体の構成など、永井純一先生の『ロックフェスの社会学』(ミネルヴァ書房)を連想しながら読んだ。博士論文、あるいは単著は長いので、刊行された既存の論文を何らかの形でまとめる必要がある。この二冊はいずれも歴史というか、ロックフェス、模型というメディアの発生から現在に至るまでを描いている。ただ、何かを論じるからといって時系列順に論じる必要があるか否か、ということはすこし気にかかっている。
 『ロックフェスの社会学』『模型のメディア論』は、歴史を書くことで、各章の事例から豊富な論点を提示している。こういうメディアを研究したい初学者にとっては、社会学の理論や概念とメディアを結びつける上で参考になるだろう。ただ、一つの論文として読むと、やや不要とされるような論点まで寄り道してしまっているのかも、とも感じられる。
 『模型のメディア論』に関して言えば、全体を串刺しにする分析枠組としてアクターネットワーク理論が提示されているので、各章においてデータベース型消費や集合的記憶といった論点を出さずとも、一貫してアクターネットワークのありようから各事例を分析するというやり方もありなのかもしれない。

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