夢についての考察と有料noteへの丁寧な誘導

中世(平安時代後期から、戦国時代にいたるおよそ500年間)では、夢は『神や仏からのメッセージ』と捉えられていました。
個人間で夢の内容を売買したり、夢占いを生業とする者がいたり、夢のお告げを神託ととらえ建造物を作ったりといった文献が残っており、少なくとも今よりは夢という現象に対する向き合い方は真面目だったといえます。
ですが、これは僅か500年から1000年程度前の話であって、それ以前はどうだったのでしょうか?

夢の売買や夢占いをするにしても、中世に生きる誰かが"初めて思いついて"始めたと考えるのは無理があります。
その時代に至るまで、連続した夢に対する認識、文化が無ければ発生しえないことでしょう。
つまり中世に至る古代では、今よりもっと夢を大切にしていたと推測できます。
なら、なぜそんなに夢を大切にするのでしょうか?

一万年以上栄えたという縄文時代を想像してみましょう。
もちろん電気などありません。
朝焼けと共に目覚め、日が沈めば眠る。
電気がないのだから遅くとも20時頃には就寝し、8時間眠り、朝は4時頃に起床していたかもしれません。
大切なのは火と水、それに山です。
山には動物が居て狩りが出来る。
季節に応じて木の実や山菜が採れ、川にいたる源流がある。
もちろん住居の材料となる木材も。

だから古代人は山を信仰しました。
生きて行く上で必要なすべてがそこにあるからです。
その時代に神様と言う概念があったかは分からないけど、山そのものに感謝や祈りを捧げていたことは、後の山岳信仰や磐座信仰からも確実であると言えます。

豊作に感謝し、不作なら祈る。

集落で共同生活をする全員が、毎日同じように感謝し、祈りを捧げていました。
この"感謝と祈り"は精神の話であり、ここに古代人の夢との付き合い方が見えてきます。

現代人は覚醒し続ける事に頑張り過ぎであるかもしれません。
縄文人からすれば、夜の11時に明るい部屋でゲームに熱中する我々を想像も出来ないでしょうが、もしその光景を見たとしたら「さっさと寝て祈れや」と思うかもしれません。

これを書いている今は2月中旬で、18時過ぎには辺りは真っ暗になります。試しに部屋の電気を消せばほぼ何も見えなくなり、何もやる気が起きなくなります。食事も面倒くさくなり、さっさと寝てしまおうとなるのです。そうすると、うっすら太陽の光が出始める3時から4時には目が覚めるでしょう。
人間の生活リズムは本来こんな感じで、電気の力が凄すぎて大切なものを見失っているかもしれません。

その大切なものが夢だとしたら?

太陽と月、光と闇に付き合わされる原始的な生活は、感謝と祈りの眠りと共にあり、それは文献には出て来ないけど、後の時代に夢を売買したり、夢占いをしたり、夢を神託と解釈したり、そういった夢にまつわる文化の礎であったと思います。

縄文人の夢には猟銃もスマホも登場し得ません。
同じように、現代人の夢には1万年後の何かなど登場し得ないでしょう。

自分と周りの幸せだけのために、自然界に感謝と祈りの生活をつづけた縄文時代は、だから一万年以上も繁栄しました。
感謝と祈りが夢の内容に影響を与えないはずがありません。生きるか死ぬかの飢餓と隣り合わせの時代は、眠る時でさえその想いを持ち続けさせたでしょう。

いい夢をみた。
乾いた大地に雨が降る夢を見た。
たくさんの木の実を採る夢を見た。
みんなで楽しく踊る夢を見た。

わるい夢をみた。
狩りに失敗する夢を見た。
火山が噴火する夢を見た。
誰かに殺される夢を見た。

不思議な夢をみた。
空を飛ぶ夢をみた。
海の彼方から何かが来る夢を見た。
木々と話しをする夢を見た。

飢えている時に豊作の夢を見る。これは救いだ。
豊かな時に凶作の夢を見る。これは予兆だ。
朝起きたら、集落のみんなは夢の内容を互いに語り出す。
そこには夢の内容を覚えていないものなど居ない。
自然界への感謝と祈りによって眠るという彼らのシンプルな生活スタイルは、それが1人ではなく集落という集団の単位で行われ、ある意味で宗教儀式のようなものだったのかもしれません。
夜の時間が、単に暗いだけの、次の日までの繋ぎではなく、その闇の時間は精神の調律に費やされた。飢え、苦しい時に救われる夢を見て、満たされている時に不穏な夢を見る。夢は救いで幸せな感覚をもたらし、ある時は油断するなと警告してくる。夢にそういう認識を持っていた"集団"があり、彼らは一万年以上繁栄しました。贅沢なものが無くても、みんな健康ならそれだけで幸せだったのです。縄文人の心は、現代人より豊かでより満たされていたとは思わないでしょうか?

文字で記録が残っていなくても、その夢の文化は後々まで受け継がれ、最初に書いたような中世の夢の扱いに繋がり、やがてテクノロジー(特に電気)の発展と共に、我々は夢を覚えなくなり、誰かに夢の内容を話そうものなら『最もどうでもいい話』とされ肩身が狭くなっています。

でも、夢は本来とても楽しいものです。

さて、ここからはこれからの話になります。
一言で言えば「自分の夢の中でくらい、自分の意志で楽しい事しよ?」ということです。
つまり明晰夢(夢の自覚と操作)で幸せを感じられるということですね。

縄文人が夢を自覚する能力に秀でていたかは分かりませんが、中世の文献には『私は自分が夢を見ている事に気付くという、とても稀な体験をした』という記録が残っていたりします。つまり、明晰夢は昔から珍しい体験だったのです。

仕事でストレスが溜まったり、SNSを見て他人を羨んだり、お金が無いと嘆いたり・・・いろいろ悩みはあるかもしれないけど、せめて自分の夢の中では超幸せになれるその切り札が明晰夢です。

ちなみに、チベット仏教の"夢ヨーガ"では現実すら夢の一部であるという驚愕の教えがあり、見てるもの聞いているもの、他人との関係も『ぜ~んぶ夢』の一言で片付けてしまうという(私の中で)奥義のような技?もあります。
そもそも夢ヨーガって何?と言われると難解なのですが、これも結局明晰夢になり、つまり仏教も本腰を入れるくらい、夢は大事なものという認識なのです。

このようにして、私は結構な金額を投資して夢(オカルト?)関連の本を読み漁り、明晰夢をもっと身近に体験して欲しいという思いで有料noteを書き上げました。
私は今では冗談ではなく毎晩明晰夢を体験しているので、皆さんにもこの世界を楽しんで欲しいと思ってます。

なお、あらゆる明晰夢、体外離脱関係の調査をする中で分かったのは「夢を夢だと気付くのは基本的に難しい」ということです。だからネットを含め、『夢を自覚する方法』には色んなやり方があるのですが、それらは本質的にはチベット仏教もネットの掲示板も、私の有料noteも同じことが書いてあるわけです。
『こうすれば夢を自覚できますよ~』の"こうすれば"にとんでもなく多くの選択肢があり、つい色々試しがちですがこれは時間の無駄です。私の手法は非常にシンプルですが、だからこそ再現性の高さと成長の実感が伴い、地道に取り組めば結果はついて来やすいと思います。

『夢を自覚する』ここさえクリアすれば、暗闇の中に光が見えてきます。
すぐに、本当の幸せは自分のこころの中にあったと気付きます。
光で見失ったものを、暗闇で見つけるのはとても楽しいことです。
一万年後の未来は見えないかもしれませんが、実らなかった初恋の相手とチューくらいは朝飯前です。え、アニメのキャラがいいって?明晰夢なら朝飯前です。

さ、気が変わらないうちにnoteを買い、夢の世界を遊びつくしましょう!

見たい夢を見てお金では買えない幸福を追求する、体外離脱・明晰夢の実践方法

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?