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弱さ

 ある日のこと、喫茶店で朽木は友人の小川と話した。数カ月に一回会っては他愛のない話をする仲であった。朽木は少しばかり本を読んでいて、やや偏屈で議論好きだった。また彼は世間を軽薄なものとみなす、厭世家でもあった。そういう意識がありながら会社などでは大きいものに巻かれる意志薄弱な男であった。対する小川はあまり多くは語らない。なので朽木は彼女がどのような事を考えているのかをいまいち判じかねていた。それであれこれ引き出そうと色々な話を試みるのではあるがいまいち会話が盛り上がらない。そのまま長時間経過して、無為な時間をすごすのが常であった。
 そうした流れを変えるべく、もっと深く話してみようなどと考えた朽木はかつて話の中で聞いたことについて疑問に思ったことを(それは実際に話していいものなのか逡巡はしていたが)思い切って聞いてみることにした。その疑問と言うのは「会食恐怖症」なるものであった。どうやら最近認知されつつある不安症の一種であるらしい。誰かと一緒に食事をすることで不安感や緊張感を抱くものだそうだ。朽木はそうした最近認知されつつある症状にいら立ちを感じていた。というのも彼の中ではそうした症状がある人はあるのだろうと極めて他人事のようにとらえながら、だがそれをいちいち分類する必要性を全く感じていなかった。それを名乗ったところで症状は改善しないし、それを何か一つの個性のように主張されるのが嫌でたまらなかった。そして皆が皆私は○○症ですと名乗る未来(それは彼の妄想に過ぎないのだが)に不安を感じるのであった。《そんなものは好きか嫌いかどうかで考えればいい、別に嫌なら人と食事しなければいい話だ。それをいちいち会食恐怖症ですなどと主張するのは、気を遣ってほしいか、かまってほしいのかとしか思えない。精神に異常をきたした人間は己を異常だとは思っていない。だが世間からは精神病だとみなされている。そうだ、本来病気というのはひた隠しにするようなものなのだ。それをおおっぴらに宣言するような社会は気に食わない。》彼のそうした考えは全て最後の一文に集約されている。つまり自分にとって気に食わないだけの事だった。それをあれこれと理屈をこねくり回しているに過ぎない。彼は絶対に正しいという狂信にも近い情念に支配されていた。この万能感、相手を屈服させようという意図でを小川に話した。それは言葉の暴力以外のなにものでもないものであった。
 「ねえ、会食恐怖症って一種の甘えじゃないですか?」
 小川はぎょっとした目つきになり、そしてしばらくの時間をおいて
 「それは、違います。」
 「いや、別に人と会食、会食って言い方もあれだけど、食事をして吐き気がするとか、緊張するというのを否定するわけじゃないんです。そういったことははあるかもしれません。僕も自分の食事している姿をあまり想像したくないですしね。ある作家は食事の際の人の口元は醜いなどと書いてあるのを見て、うんなるほどな、などとも思ったりしました。多分僕の口元も醜いだろうなと、人と食事はあまり好きではありませんしね。そしたら、人と食事するのが嫌いだとか好きだとかで論じればいい訳でして。いちいち会食恐怖症などと仰々しい名前を付けるのが正直気に食わないんですよ。」
 「はあ…。そうですか。けどそれで本当に苦しんでいますし…。」
 小川は何かもっと言いたい様子であった。だがあまりうまく言語化できないようであった。
 「だから苦しむのは本人の自由だって言っているじゃないかですか。それが楽しい人もいる訳ですし。そういう不安症で人を抑圧したいのですか、それとも全員が気を遣うような理想郷でも目指しているのですか。」
 「わからない人はわからないでしょう。」
 朽木はもう周りが見えなくなっていた。そして、何としても己が主張を相手み認めさせたい、ただその一点で喋った。
 「それに不安症と名乗ったところで、それはその症状とやらの悪化につながるのではないでしょうか。それを盾に、私は○○だからと、永遠にその言葉に縛られていたらそこから抜け出すのが難しくなるだけではありませんか。つまり治るものも治らない訳です。」
 「けど治そうと努力はしてます。」
 《まだ言い返すのか。》朽木はもう目の前の小川を弱者、根性の曲がったどうしようにもない人間としか映らなくなっていた。
 「そうですか。それなら最初から会食恐怖症と言わなければ良いじゃないですか。僕思うんですよ。小川さんは悲劇のヒロイン気取りじゃないかって。」
 そこで朽木はとんでもない事を言ってしまったと思った。だがそれは表面上の事で、己が悪いなどとは心の中で一つも思っていなかったのである。
 「…………。」
 小川は何も言い返さなかった。だがその瞳の奥には憎悪のこもったような、悲しいようなものが(それは朽木の罪悪感によるものかもしれないが)あるような気がした。
 それ以上は会話をポツポツとするだけに留まった。特に怒っているようでも悲しそうな様子もなかったので朽木は安心していた。
 「それじゃ、また。」
 別れ際朽木は無神経にも言い放った。そしてさっさと車を走らせた。対向車線を通り過ぎる車のライトをぼんやりと眺めていた。(終)



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