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【母が残した家計簿】①


これは、昭和〜令和を生き抜いた母が
65年間書き溜めた【日記付き家計簿】を元にしながらファミリーヒストリーをたどって行くコーナーです。


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今日は初回ですので、母の紹介をしたいと思います。



娘の私から見た母の性格は

賢くて…頭の回転が速くてひょうきんな人。

私はおしゃべりでとりとめも無く話が広がるタイプですが、
母はそれをちゃんとまとめてポイントを押さえてくれる人。

入院しても、冗談を言ってドクターやナースを笑わせて楽しんでしまう人。

私が子供の頃からずっと、素敵で魅力的な母親であったことに間違いありません。


母は今年85歳になります。


今回、母の日記家計簿を見直して見て、初めて分かることもありました。

私の母ではありますが
一人の女性が昭和・平成・令和と生き抜いた歴史を、絵巻物の様に私に見せてくれた尊い人です。



母は、1937年昭和12年福岡県に生まれました。日中戦争が勃発した年です。

母が誕生した時は、父親(私の祖父)は出兵しいて不在で、その2年後に家に戻ったそうです。

1941年昭和16年には日本軍により真珠湾攻撃があり、第二次世界大戦が開戦となりました。

翌年の1942年昭和17年。
母が5歳の時、警察官になっていた祖父は駐在員として家族を連れて韓国釜山に赴任しました。

翌年母は日本人小学校に入学しますが、日本人学校は遠かったので、一人祖知り合いの家に住まわせてもらって通ったと言うことです。

幼くして家族と離れ、とても寂しかったとよく話していました。

1945年昭和20年。終戦を迎えます。
母は8歳になっていました。

釜山からの手こぎ船での命からがらの引き揚
げは大変だったそうです。

両親と幼い兄弟5人。
門司港の港に着いて、そこから祖父の実家のある鹿児島へ引き揚げました。

鹿児島県の山深い小さな家に、8歳の私の母を筆頭に5人。
その後生まれた兄弟が二人。
戦争で両親を亡くした従姉妹が二人。
自分の両親と年老いたそのまた両親の、
総勢13人が同じ屋根の下で生活することになりました。


母が暮らしたその鹿児島の家を訪ねていったことがあります。
こじんまりとした藁葺き屋根の古い平屋根の家。
バスの通らないこの山奥で、大変だったろうと思いました。


1952年昭和27年。
中学校を卒業した母は、鹿児島市内の小さな病院に住み込みで就職して准看護師学校へ通うことになります。

大所帯で生活がままならない状況でしたので、長女であった母は、家族から離れて資格の取れるこの道を選びました。

この頃は、田舎のまだ中学を卒業したばかりの子供のような多くの青年達が、
集団就職で都会に巣立っていく時代でもありました。

1956年昭和30年。母は18歳。
准看護師の資格を取得しました。
それと同時に、福岡県の県立病院へ就職が決まり、郷里を後にしました。

1957年昭和32年。母は20歳。
就職した県立病院で、福岡県の職員だった事務職勤務の7歳年上の父と出会いました。


そして結婚。


この年は、コカコーラが日本での販売を開始しています。
敗戦から12年経っていますので、日本の経済も、都会の方から少しずつ豊かな風が吹いて来始めた頃でもあります。

母の家計簿はこの年から始まっています。

この続きは、次回から始めたいと思います。

Nolly

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