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【母が残した家計簿】⑧ 完済。新たな夢へ向かう

昭和〜令和を生き抜いた母が
65年間書き溜めた

【日記付き家計簿】

を元にしながら
ファミリーヒストリーをたどって行きます。


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1963年昭和38年に入ります。


この年は、翌年に東京オリンピックを控えて、東京は空前の建設ラッシュを迎えています。高速道路や競技施設が次々と建設されています。土地が不足し、団地やビルの建設も進みました。
日産やトヨタなど、自動車メーカーは次々にモデルチェンジを行いホンダも小型スポーツカーを発売しています。



テレビ番組のコンテンツも充実し始めます。
この年に太田プロダクションも設立。
芸能人養成所も含め、かつての銀幕スターだけでなく、新たにテレビ界のタレントやアイドルの需要があり、この業界も急ピッチで伸びてきたのではと思われます。
NHKのテレビ大河ドラマが始まり、キューピー3分クッキングやがっちり買いましょうなど人気番組も始まりました。


国産のテレビアニメも続々と登場しましています。鉄腕アトム。鉄人28号。エイトマン。狼少年ケン。子供達もテレビの虜になって行きました。


世界的には暗いビッグニュースもありました。
アメリカのケネディ大統領の暗殺事件。
これは奇しくも日米間初の衛星生中継番組がケネディ大統領の暗殺ニュースとなり狙撃の映像とニュース速報が日本全国に流れ、衝撃を与えました。
世界のニュースを同時に知ることができる時代。日本もその仲間入りを果たしたのでした。

国内では、力道山が刺されて死亡。
私の祖母はプロレス好きでした。私がまだ赤ちゃんの時、祖母は私を負ぶって、近所にある街頭テレビで中継されているプロレスを観に行っていたそうです。
祖母は優しい人でしたが、プロレスの番組を観ているとき人格が変わると子供心に記憶が残っています。


さて、母の家計簿ですが、この年から、毎年使用することになった、日記兼用暮らしの家計簿を覗いてみます。

月収ですが、前年に18000円だったのが、この昭和38年には、4月のベースアップで22,000円。

4,000円のアップです。

父は地方公務員でしたのでたぶん平均的だったのではないかと思われます。この当時は民間企業の方がもっと景気が良かったようです。
前年に私達家族は父の実家から引っ越して、大家の老夫婦が住む家の2階を間借りしていました。

2月で弟Kennyは2歳。4月でNollyは5歳になりました。父は33歳。母は26歳になる年です。


5月に入ると、その大家さんから意地悪されたと母は日記に書いています。
母はその家の近くの小屋でムシロ綴じの内職をしていたそうですが、大家さんがムシロ屋さんに母に仕事を入れないようにと言ったのだそうでした。
さすがに母も腹を立てたようです。内職のために借りていた小屋を引き払ったと書いています。


内職の収入が途絶えた母は計画を練り直したのか、翌週には毛糸の編み機を購入しています。そして月末には編み物学院に通うようになりました。
家庭用編み機は、当時価格は15000円~20000円くらいしていたということでした。ほぼ父の月収の一月分ですが、家計簿には、編み機月賦1000円と記録があります。
母は、以前離婚して実家に戻っていた父の妹が、編み機で編み物の内職をして、結構いい収入になっていたので、うらやましいと思っていたそうで、すぐに決断したようです。
子供も小さいし、家でできる内職にはちょうど良いと思ったのでした。



6月も引き続いて大変だったようです。
Nollyが鎖骨骨折をして、そんな折母は流産をし、はたまた父はまたもや転勤の内示を受けて1週間後に転勤でした。
時期が重なっていて、さすがに大変なことになりました。それで母の伯母が手伝いに来てくれたようです。この人はブラジルに行った祖母の姉で同じ福岡に住んでいました。とても助かったようです。母はあまり愚痴をもらさない人でしたが、日記の6月の覚え書という余白に、

「主人の転勤と思いがけない病気に戸惑う」

と一行記されています。

7月上旬。
母の体調が一旦落ち着いてから新しい住まいに引っ越しをしています。
次の移転先は、それまでと違って、街の中にありました。
小さな新築の戸建てで2500円の家賃。
私は、この引っ越しのシーンは覚えています。トラックを借りて、父の友人数人が引っ越しを手伝ってくれていました。
父ととても仲良しのおじさん達だと子供心に感じていました。
この友達の一人が車を持っていたので、私は父に連れられていろんなところへ、この叔父さん達と一緒によくドライブしていたようです。写真も残っていますし、うっすら記憶があります。

引っ越した日の打ち上げ。1軒屋だったので、大家さんに気を遣う必要もなく、かなり盛り上がったようです。ちょっと、ねずみ男に似た感じの叔父さんが、ビールが好きで一番ひょうきんで、私も可愛がってくれていました。すごく印象に残っています。


引っ越しした7月はいい月でした。
頼母子講の返済を完了しています。

頼母子講5,500円の支払いがなくなり、4,000円のベースアップ。両親の経済状態が大きく変化していきます。

この月には35,000円の中古のテレビを3回の月賦で購入しています。一月の支払いは
12,000円ほど。このテレビは私の記憶にはありません。母に尋ねると、町の中の一軒家。家賃はやはり高かったので、テレビまではさすがに贅沢だったのでまたすぐ売ってしまったと言うことでした。

借金を完済してベースアップで手取りが1万円ほど増えても、高い家賃とテレビの月賦が12,000円では、逆にマイナスです。

新しく引っ越した家の近くに大きなお寺がありました。そこで編み物教室があるのを見つけて、母はそこに通いながら、途中になっていた編み機の操作を習い、「目綴じ」という内職もしていたようです。

家庭用編み機自体は1950年代からブームになっています。
1960年代前半は、まだまだ編み物は購入するより手編みの方が安かった時代です。母は教室の先生がお客から受けた注文の編み物の行程の一部を内職していました。


それからまだ2ヶ月も経たない8月末。
当時33歳の父と26歳の母は、5歳のNollyと2歳の息子のKenneyを連れて、また引っ越しました。

勤務していた部署の担当地区が代わり、その地区にたまたま当時の課長だった人が住んでいて、近くに安い空き家が有るから是非すぐ来いということになって、そのご縁で、現在住んでいる町にその時から住むことになりました。
父の実家からは遠い田舎で小高い山の麓でした。親戚は誰一人いませんが、その課長さんの家の近くでもあって、課長さんは父をよく可愛がっていました。意味も分からず私たちはその人のことをずっと「課長さん」と呼んでいました。弟のKenneyは、ずっと親戚だと思っていたようでした。

田舎の新たな住まいは小さな集落の中にあり、2キロ先までお店はありませんでした。ご近所は皆さん農家でした。それまでの狭い借家と違い、古いけれどしっかりした日本家屋で、お庭も広くて畑もありました。
田舎に住む豊かな面も不便な面も兼ね備えたところでした。そんな環境の変化にはあまり戸惑いはありませんでした。親切なご近所さん方に恵まれて、Nollyと弟Kennyはすぐに順応し、のんびり元気に育っていきました。


1963年のこの年、病気をしたり2度も引っ越ししたり、大変な一年だったようです。しかし、家庭の大変さよりも日本の成長の勢いが勝っていたようで、節約もしていますが、収入的にはかなり恩恵を受けています。

実家の借金を完済した両親は、ブラジルへ移住した母の父親との約束。

『10年たったら故郷に錦を飾って帰国する』

という言葉。忘れてはいませんでした。
これからは自分たちの家を持つ。
そしてブラジルの父親の帰国を待つという計画に向かって動き始めたようです。

母の家族がブラジルへ移住して、あれから、もう5年の歳月がたっていました。


約束の10年には残り5年です。


借金返済をしていたころと生活水準を変えなければ、今また頑張れば、家を建てる夢は実現できるのではないかと二人は決意を新たにしたようです。
この時の思いを、父はお酒を飲むたびによく話していました。


翌年は、いよいよ東京オリンピックの年です。どんな年になるでしょうか。



今日はこの辺で。

Nolly


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