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【母が残した家計簿】⑥俺は庄屋の気分を断ち切る!

昭和〜令和を生き抜いた母が
65年間書き溜めた

【日記付き家計簿】

を元にしながら
ファミリーヒストリーをたどって行きます。


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1960年昭和35年と昭和36年の2年分の家計簿を覗いていきます。

1960年昭和35年は、池田隼人内閣が所得倍増計画を発表した年です。
おもちゃのダッコちゃん大ヒット、カラー放送開始。

景気がよくなっている兆しがあります。

翌年の昭和36年は、NHK連続テレビ放送開始。ドイツでは、ベルリンの壁が建設されました。坂本九の『上を向いて歩こう』が大ヒットしたのもこの年です。


昭和35年の母の家計簿ですが、
いきなりですが、
1月末に母は入院したと記録があります。


どうして入院したのかと母に聞いたら、たぶん慣れない仕事と無理がたたって、一泊入院したのだろうと言うことです。
過労かなということでした。


体調が悪くなると、気持ちも弱くなりがちですが、母に挫けそうにならなかったかと問うと、


「今考えると、借金地獄だったけれど、ある時2番目の兄さんと、お父さんの会話を聞いてしまってね。それで自分も考えを前向きにしようと思ったんよ。」と言いました。


二人の会話とは、ある夜2番目の義兄さんがやってきて、
「お前に、こんな苦労を掛けてすまん。」
と言って泣いていたそうです。


そしたら父が

「いやあ兄貴、あんたが一人悪いとや無かぞ。俺たちの習慣がいかんとたい。昔は田畑が一杯あって。それを他人に貸して、その金で俺たちは暮らしてきた。
とっくに庄屋では無くなって、借金つくっとるのに、いつまでも庄屋の気分がのいとらん。
あんたじゃなくて、その気分がいかん。おれは、その気分を断ち切ろうと決めた。」



母はその二人のやりとりを聴いて、勉強させてもらったと思ったそうです。借金地獄も勉強だと思うことにしたそうです。
2番目の義兄さんの涙につられて、母も涙が出てきたけれど、自分の兄弟が夫に迷惑をかけているわけではないので、自分はまだ気が楽だと思うようにしたそうです。
この時の二人の会話を聞いていなかったら、自分の人生を悔んだり後悔したりしていたと思うとも話してくれました。

母はこの家のこれからの立ち直りを、自分も一緒に見ていこうと思ったのかもしれません。

4月になるとNollyは2才になりました。動きも活発になり、可愛さも増していたでしょう。
叔父の一人娘の私の従妹は、16才になりました。高校生になりました。
貧乏なので、自分も働くと言っていたそうですが、どうにかなるからと、私の両親から勧められて高校進学を決めたそうです。
毎月授業料が家計簿に加わりました。
私立の商業高校でした。

  • 入学準備のカバン…1700円

  • そろ盤…950円

  • 体操用トレパンとシューズ…690円

  • 毎月の授業料…2000円

雑費もチョコチョコかかっています。
父がこの従姉妹のお姉ちゃんに、革鞄が高価なので風呂敷ではどうかと悪い冗談を言ったら、彼女は泣き出してしまって、高校には行かないとすねてしまったそうです。

このお姉ちゃんが我が家に遊びに来るといつも話題に出る出来事です。


高校生のお年頃の娘が一人いるせいか、この年になってから、初めて家計簿に登場するものが有ります。

  • シャンプー…20円

このころの使っていたシャンプーは、液体ではありませんでした。粉でした。
もしかして記憶に残っている方もいらっしゃるかもしれません。小さな袋に1~2回分が入っていました。

昭和30年代は、シャンプーするのは5日に一度の頻度が平均だったそうです。シャンプーが出るまでは、母は、普通の棒状の石鹸を使っていました。
頭も体も洗濯も同じものを使っていたそうです。これは、よそのお宅はどうだったのか分かりません。

歯磨きは塩を使っていたそうです。

若い女性が髪をサラサラにしてほぼ毎日シャンプーをするようになったのは、まだまだ先のこと。1960年から液体シャンプーが発売されたようですが、父の実家は、1955に発売開始された粉シャンプーを、やっとこの年から使い始めています。


10月4日 
ブラジルから手紙が来ています。当時は船便で3ヶ月近くかかったようです。日本から移住して1年半ほど経っています。
この時がブラジルからの初めての便りなのかどうなのかは定かではありません。

10月末

  • トラコーマ眼科…300円

12月末までNollyは2か月間眼科に通っています。
トラコーマはハエを媒体として感染することが多く、免疫力の無い3歳から6歳までの子供の罹患率が高いそうです。
トラコーマにかかった人の5パーセントが視力障碍や失明があると言いますので、治療費や交通費がかかりますが、必死に病院へ通ってくれたのだと思います。



年が明けて1960年昭和36年の家計簿を見ていきます。


1月にやっとブラジルに向けての返事を出しています。

  • 切手代…115円

国内封書が10円の頃、10倍以上ですから
現在の900円程度だったかと思われます。


家計簿は中断していますが、2月には弟のKenneyが誕生しました。
長男誕生で、嬉しかったはずです。
痩せぽっちな赤ちゃんだったので、健康に育つように思いを込めた名前を付けました。


家計簿は、4月から再開しています。
Nollyは3才になりました。この年から、家計簿にいたずら書きが増えています。
鉛筆を見つけると、所かまわず力強く意味不明な絵を描いていたようです。
ただ、景気が良くなっているのか、借金の返済は順調に進んでいるのか、家計簿に書かれる項目の中で、身だしなみや洋風の調味料が記録されるようになりました。

  • 新聞代…250円

  • だしの素…100円

  • ご飯の友

  • ポマードチック…250円

4~5月はまた中断して、とんで9月から家計簿は再開しました。

  • ケチャップの素…60円

  • カレー粉…35円

  • マヨネーズ…20円

  • ソーセージ…20円

  • 味の素…45円


父の妹の一人が離婚して実家に戻ってきていました。この妹は機械編みが上手で、それを内職として頑張ってくれていました。
実家に戻ってきた父の妹は、私と同じ頃産まれた女の子が一人いました。私の従姉妹になるその女の子とは、双子のようにいつも一緒に遊んでいたと言うことです。

12月パーマ二人で 1000円 一人は500円。
この年の暮れ、母は義理の妹と二人でパーマをかけに行ったようです。母は天然ウエーブですが、この時24歳。
過労で入院したことを思えば、思いっきりストレス発散できる贅沢だったろうと思われます。

父の実家の台所は広い土間に竈(カマド)がありました。少し薄暗いところではありましたが、パーマをかけた母達二人は、竈を囲む台所で、正月準備に忙しかったでしょう。
祖母と高校生のお姉ちゃんは、双子のようなNollyと従姉妹。そして10ヶ月になった弟Kennyの面倒を見ていたに違いありません。
笑ったり泣いたり慌ただしい、明るい年の暮れでは無かったかと思います。


この続きは次回と言うことで…。

Nolly

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