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【母が残した家計簿】④人生の立ち直りに挑む父と祖父。

昭和〜令和を生き抜いた母が
65年間書き溜めた

【日記付き家計簿】

を元にしながら
ファミリーヒストリーをたどって行きます。

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昭和33年の2月で中断していた家計簿。
その後どうなったのか前回からの続きを覗いてみます。



思わずして、一夜で実家の借金を自主的に背負った夫。
毎月の給料を借金返済のために差し出さなくてはならなくなりました。
お腹の中には赤ちゃんがいます。
春になると産まれてきます。
そしてそんな事情とは異次元のことのように、自分の実家はブラジルアマゾンへ移住計画があるという。

次から次へと母を取り巻く事情は、予想もしない方向へ展開して行くのでした。


父は、この時はまだ28歳。
借金を放置していた自分の両親に怒りで詰め寄ろうにも、すでに70代に近くなっていました。
男兄弟は5人いて、自分は一番下。
子供の頃から兄たちに憧れを持って育ってきました。
それだからこそ、兄たちの言いつけを良く守り、家の手伝いをよくやってきました。



兄達は今でもしっかりやってくれていると思っていました。



しかし、自分の実家は、過去からの負の累積で家がつぶれてしまうほどの情けないことになっていました。

父は、それを見抜けなかった自分も含め、どいつもこいつもと親族会議をしながら思ったはずです。

しかしそれでも、勇気をくれる人もいました。



それは妻の父親、義理の父。


自分の親兄弟に頼る人はいないけれど、
義理の父親は、50歳を目前にして自ら異国の地で未開の地を切り開くことで人生の再起をかけようとしているのです。

その生き様は父の魂に浸みるものがありました。

まだまだ上手がいると思うと、
家の犠牲になる自分の身の上を腐ることなく、
とにかく前を向いていくことに気持ちを奮起させることができました。



母は21歳。
自分の父親も自分の夫も、どちらもゼロからというより、特に父親の方は、予想もつかないマイナスに足場を組むことこそが魅力とでも言う様に、人生の立ち直りをかけて挑んでいこうとしていました。

不安もあったのでしょうが、母はふさぎ込んではいられませんでした。

夫の実家をきりもりするのは、舅では無く、自分の役目になったのです。


母の初めての出産。
移住の準備で慌ただしい実家を頼ることはできませんでした。

産前産後、義理の親兄弟を頼りました。

しっかり休養をとりながら、夫が背負ったものを少しでも一緒に担げるように思いをめぐらしていたに違いありません。


昭和33年の家計簿は、私Nollyが4月に誕生していますので、産後の7月から始まっています。


しかし、一旦7月から再会した家計簿ですが、どうしたことか10月からまた止めています。

それでその理由と暮らしぶりを母に少し聞いてみました。

母は言いました。

「お父さん(私の父)が実家を継ぐという形になったんやけどね、もう、それは多額の借金付き。暫くはノートとか鉛筆なんて買うお金もなかったんよ。
少し残った狭い畑で作った野菜をね、イリコで煮つけて食べたね。何せお魚も買えなくて、爺ちゃんが近くの有明干拓の浜辺でアサリ貝を採ってきて、それが一番のご馳走やったんよ。」



確かに7,8,9月の家計簿には食材を購入した記録はありませんでした。

そのため母のオッパイの出も悪かったのか、

8月27日 

  • ミルク1缶300円 

もうすぐNollyは5か月になろうとしていました。


今でいうと500gで3000円くらいになるようです。
当時の粉ミルクは高価ではでは無かったでしょうか。
家計が大変なのに変だなと思ってよく見ると
毎月1回、総合病院をNollyは受診しています。

怪我でもしたのか母に聞くと

Nollyは栄養失調で皮膚病になって治療をうけていたそうです。


イリコとアサリ貝では、あまりにもタンパク質が不足しています。
一時的に粉ミルクを飲ませるように保健婦さんから指導を受けたようでした。



9月。
いよいよ母の実家の家族がブラジル移住に向けて出発しました。
母は7人兄弟で一番上。
母を除いた、男4人と女2人の兄弟。
長男は18歳でしたが、まだ1歳と4歳の子供も含まれていました。
当時母の父親、私の祖父は49歳。
祖母は42歳でした。


祖父達は横浜港に停泊中の日本移住船アルゼンチナ丸に乗り込むために、はるばる鹿児島から横浜行きの急行列車に乗り込みました。


私の両親はまだ生後6ヶ月だったNollyを抱いて、途中の福岡の大牟田駅から同じ急行列車に乗り込み、
北九州の折尾駅まで1時間ほどの時間を同じ列車の中、一緒に時間を過ごしました。


同情した1時間はあっという間でした。
49歳の祖父は28歳の父に、



『10年後には、故郷に錦を飾って帰ってくるからな』



と言ったそうです。


そのことを私は何度も父から聞きました。

それならば、10年後に帰って来た時には、滞在してもらうための場所が必要だから、受け入れる場所として、自分たちは自分達の家を建てて帰国を待とうと、まだ若い両親は固く誓ったと言います。



実家の借金を返して、その後自分達は独立して家を持つ。


両親にとって、とても壮大な夢であったに違いありません。



その年昭和33年の家計簿は、先にもお話ししましたが、見送りに行った9月で終わっています。



父の実家に関しての借金ですが、
家を担保に銀行に借りていたのは、
200万円だったそうです。

昭和30年代初期当時の100万円の価値は、2000万円から2500万円と答えている方が多いので、それを基にすると5000万円近くになるだろうと思われます。

その分は広く持っていた田んぼをほとんど売って家の抵当を抜いたそうです。

それ以外は、父の給料や自宅でとれたコメや麦を売ったり内職で4年かけて返済したそうです。

昭和33年には東京タワーが完成しています。復興した象徴として人々の興味を引きました。より一層の暮らしの向上という時代が見え始めていました。

そんな中、戦後の影響で父の家族も母の家族もまだまだ住むところを求めて、借金の返済からとマイナスの暮らしから再スタートをしているのでした。

年が明けて昭和34年3月になってから、また家計簿が再開されました。


以前のものとは雰囲気がまるで違います。
意志を感じる家計簿に変わっているように思えます。

どのように変わっているのか。この続きはまた次回と言うことで…


Nolly

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