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【母が残した家計簿】③ 実家の借金返済に立ち上がった父。

昭和〜令和を生き抜いた母が
65年間書き溜めた

【日記付き家計簿】

を元にしながら
ファミリーヒストリーをたどって行きます。

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昭和32年後半から翌年昭和33年2月までの家計簿を覗いてみます。




父の実家は、福岡県柳川市の近くにあります。

父の転勤に伴い、父の実家で同居することになりました。
新居が見つかるまでと思ったのでしょうか。きっと母は最初は呑気に同居生活を始めたと思います。



父の実家は元々地主で、まあまあ裕福な家庭だったそうですが
戦争やその後の農地改革などで、どんどん傾いて行きました。


父の実家は、長男、父の1番上の兄は戦死していましたので
2番目の兄家族が実家の跡取りとして住んでいました。


父より12歳年上の兄。当時39歳。
僧侶としてお仕事していましたが、大した収入は上げられず
その上、子だくさんで当時4人の子供がいましたが生活をまかない切れていませんでした。


この叔父は晩年、何と70歳を超えてから
大変な偉業というか、ある役目に任命されるのですが…
この頃はまだ、40歳を前にしても名もなく世間から認められていない人でした。


本来実家を継ぐべき一番上の父の兄は、第二次世界大戦中に戦死しています。

奥さんはそれがショックだったのか、一人娘を残して病気で亡くなっています。
ですので孤児となったその子も一緒に生活しています。


そして、母より年上ですが、父の妹が2人。


母は父の実家で、総勢13人と一つ屋根で暮らすことになりました。


もともと大所帯で生活するのは慣れてはいた母ですが、さすがに大変だったようです。


とにかく、生活に慣れるのに最初は必死だったようです。

家計簿は、前回6月に中断し9月から再開。


父の実家に同居したこの頃は、収入の記載はありませんでした。
出費がかさむので、とりあえず備忘録程度に出費した金額を記入している感じがあります。

兄たちの子供5人と一緒に暮らしているので、家計簿には、どの子にお菓子いくらなどの項目が目立ちます。


収入の欄の記載がないので、とにかく使ったものだけは記録するという形でした。


そんな中、母の名前で

  • 初診料…100円

見つけました。


私Nollyは翌年の4月生まれ。
たぶん産婦人科を受診。
母のお腹には、Nollyがいました。




生活をしていくうちに、母はすぐに父の実家の状況がおかしいと思い始めたようです。






近所の店に醤油や味噌を買いに行っても、売ってくれないそうでした。


現金を見せるとしぶしぶ少しだけ売ってくれるので、おかしいと父に話したそうです。



それで、父も最初は分からなかったそうですが、徐々に現実を知ることになります。


田んぼも家もあって、それなりに暮らしていたようですが


あとを継いだ叔父は当時まだまだ生活能力が無く
いろんなところに借金を作ってその場しのぎで生活していたようです。


自分の家族だけでなく、両親や二人の妹。
とうてい養っていけませんでした。





私の両親が同居して気が付いたときには

何と住んでいた実家の家までも抵当に入っていて
立ち退きの知らせがきて父が知ることになったようです。

母は驚き、あっけにとられたそうです。



お腹に子供がいるし、先行きどうなるか大変なことになったと思ったそうです。


何度も親族会議を開いて
結局、抵当に入っていなかった
田んぼを売って、そのお金でとりあえず家の抵当を外したそうです。




父が幼い頃までは、地主でいい生活をしていたようです。



しかし父の祖父、私の曾祖父が知人の借金の保証人を繰り返して、
曾祖父が亡くなった時には、葬儀に借金取りが押し寄せたということでした。



財産が減っても貧乏になっても生活を変えることが出来なくて、どんどん崩壊の一途をたどっていたようでした。



母から聞くところによると、借金取りがやって来て大変だったそうです。




そこで立ち上がったのは、父でした。



父はその頃、病院の監査の仕事をずっとしていましたので、お金の収支監査は得意だったようです。


家の抵当権を抜いたり、返済についての手続きには、借金まみれの兄を家長から外して、定期的に収入のある父を代表にする必要があったそうです。
父の定期的な収入を担保にすることで、
わずかな田んぼを手放さずに済んだそうです。

年末に、初めて父のボーナスの記録があります。

  • ボーナス…19,600円



この金額が、多いのか少ないのか分かりませんが、ありがたい収入であることは確かです。



福岡では、地域によって違いがあるかもしれませんが、
結婚した初めての正月には
新郎の実家から送る感謝の気持ちとして嫁の実家に寒ブリを贈る風習があります。

昭和33年の正月。


両親はそのブリを持って、母の実家鹿児島へ里帰りしています。
鹿児島でも、山の奥なので、そんな大きな魚は見たことないので
兄弟たちは物珍しくて大喜び
兄弟に皆に10円のお年玉をあげています。
トランプを200円で購入。


皆で遊んだのでしょう。

  • お年玉…10円

  • トランプ…200円


両親はその時に、母の父親(私の祖父)
から、ブラジルに移住する計画を聞いたそうです。

母の実家も、本来跡取りの長男が戦死して
その孤児となった子供たちを育てていました。

その子たちも成人して
立派な跡取りと成長したので

次男の祖父はブラジルへ新天地を求めようとしたようです。



娘を1人日本においてブラジルに行くのは忍びなくて、

「一緒にブラジルへ移住しよう」


と誘われたそうです。


父はその時のことをよく話していました。

自分の実家に借金が無かったら…
自分もブラジルに行って、思いっきりやってみたかった…と。


母のお腹の中に子供がいるという理由で辞退したそうです。


母も、両親が心配するので
父の家の実態は話せなかったと言います。




2月までで一旦家計簿は終わっています。

  • おむつ生地…4反800円

  • シッカロール…80円


そろそろ出産の準備が始まった気配です。




しかし次々に借金が発覚する現実があったそうです…




また続きは次回ということで


Nolly

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