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忘れじ

過ったのは、季節も忘れた満月の夜。
「月下美人が咲くんだよ」と言われて少し無理をして夜更かしして、植物園みたいになった庭であの人の手を見ていた。
大人になってから、一年に一度しか咲かないという逸話が単なる俗説に過ぎないと知ったけど、それでもあの花は私に取って神秘的なままだ。
これまで何千何万と花に触れてきたあの人の手が、ほろりと花弁を摘み取る。
器に入れられお酢を添えて差し出されたそれは食べ物と認識するには少し美し過ぎたけど、迷いを知らない年齢だった私は躊躇うことなく口に含んだ。
少し粘り気のある舌触り。それから、すっきりとした甘み。鼻に抜けるふくよかな香りをお酢が適度に締めてくれて、顔ほどもあった大きな花弁はあっという間に私の腹におさまった。
なぜ私しかいなかったのか、いつもであれば一緒にいたはずの両親も兄弟も記憶にない。ただあの人と、月下美人と、舌に残る甘みだけが強く脳裏に焼き付いている。

花が降る、ぽたぽたと。
あの人と私との僅かな交わりの中に常にいた花々。天井を覆い尽くすほど吊り下げられたドライフラワー。生活の隅々に微笑みかける鉢植え。
大小様々の花壇と、お化けみたいな木の連なる庭。繊細に生けられキラキラと照らされる作品達。名も知らぬままにあなたに見せられ、穏やかに交わった記憶。

日々の道中、ふと花の前に足を止めてしまうのは、猛々しい生命の前にぼうっと意識を飛ばしてしまうのは、あの人が私の前を歩いてくれていた名残だと思う。
祭壇に生けられた花を前に、改めてあの人の意思の長さを実感する。
何も恐れることはなく、何も失うことはない。
この地に花が実り続ける限り、私はきっとまたあなたを思い出して、何度だってその偉大さに、あなたへの愛を確かめるだろう。

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