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お金で買えるしあわせ

昨日、スタバでガラス製のマグカップを2つ買った。家にマグカップは3、4個あるし、私は一人暮らしで、来客も無い。だからべつに取り立てて必要がないものなのだけれど、デザインが可愛くてつい買ってしまった。

きっかけはYou Tubeでそのマグカップを紹介している動画を見たことだ。それを目にしてからどうにもそのマグカップが気になってしまい、公式サイトを何回も見て、カートに入れてみたものの、なかなか購入ボタンを押せずにモジモジしていた。2つで5,000円。高くはないが、安くもない。このまま見過ごすこともできるが、あとで「やっぱり買えばよかった」と後悔するかもしれない。だけど買ったら買ったで、また不要なモノを増やしてしまったというストレスも生じるだろう。

よし、いっそ現物を見てから決めようと思って近所のスタバに行ったら、2種類あるうちの1つはラスト1個になっていて、その状況に後押しされて結局2つとも買ってしまった。


帰宅後、マグカップの包みを開け、無造作に机の上に置いた。そして一夜明けた今もそれは机の上の雑多なものたちに紛れたままそのままになっている。欲しかったものを手に入れて、私はもうスタバのマグカップについて考えることはなくなった。


こうして私はたしかに欲しい物を手に入れた。だけど私の幸福度は買う前と買った後とでは大した違いは無いように思える。理由は簡単だ。私は本当に欲しい物の代替としてマグカップを買ったからだ。


服であれ、小物であれ、車であれ、もう私はお金で買えるものから得られる幸福の限界値を知ってしまっている。私が本当に欲しいものは、お金で買えるものじゃない。暮らしを彩る小物たちに、ほんの少し助けられることも、もちろんある。だけどそれは所詮はすぐに消えてしまう喜びだ。


私が本当にほしかったのはスタバの可愛いマグカップではなくて、そのマグカップを手に取りながら向かい合わせの相手と語らう喜びだ。だけど、それはお金を払って手に入るものではなくて、だから私はそういうイメージを買ったに過ぎない。そんなことはもうずっと昔に分かっていたはずなのに、まだ同じ行動をなぞっている自分がいる。


だけど一方で、お金で買える幸せならば、買ってもよかろうという気持ちもある。


この先、結婚するかしないかわからないけれど、もし結婚しなかったらとしたら、あまりお金を溜め込む意味もない。いま生きてるうちに、若いうちにこそ投資する価値のあるものがこの世にはたくさんあると思う。


人生が難しい点は、未来が不透明すぎるというところで、自分がいつ病気になるのか、いつ結婚するのか、いつ親が亡くなるか、全く分からない。

人生にはコントロール可能な部分と不可能な部分とがあって、お金でモノを買うことは確実性の高い行為であり、自分の意志ひとつで出来ることだ。だけど、それから先のことは、つまり、車は買えたけれど、誰がその助手席に乗るのか、といったようなことは自分の気持ちだけではコントロール出来ない。


今の私の出来ることは、願いをこめて2つのマグカップを買うことだけだ。

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