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川内倫子展

東京オペラシティアートギャラリーでやっている、川内倫子展へ行ってきた。

この展覧会の感想を一言で言うならば、「分かる」だ。何を生意気な…と思われるかもしれないけれど、私には彼女が何にエモさを感じているのか、平安風に言うならば「あはれ」を感じているのかがよく分かる。

というか、女性ならば多かれ少なかれ彼女と同じような感覚を共有しているような気もする。ただ、彼女の写真の中にあるのは、単純な美しさ、というだけのものではなく、残酷さ、悲しさ、グロテスクさもあって、でもそれは何も特別なことなんかじゃなくて、我々の日常に普通にあって、でも普段は皆、目をそらしているものであったり気にも留めていなかったりするもの、たとえばひっくり返ってパタパタしている昆虫とか、それに群がるアリとか、血管の浮き出た震える手とか、剝いたそばから酸化していくりんごだったりする。

そういう、世の中の無情と無常とを、光の効果をうまく使ってエモく切り取っている。そのことは、この展示の冒頭にあった川内さん自身のことばの中に端的に示されていたと思う。

「身体を移動し、撮影したものと向き合うという行為でしか得られないものがある。それはなぜいまここに生かされているのか、という答えのない問いに少しでも近づくための、自分にとって有効な手段だ。」
「久しぶりに自宅で過ごす長い時間は、幼かった頃を思い出させた。学校から自宅に戻ってからの退屈な時間や、長い長い夏休みのこと。目の前にいる娘もあの頃の自分と同じような時間の流れにいるのだろうか。少しずつ髪と爪は伸び、毎日毎秒死に近づいいる。」

そういう視点で世界に対峙するとき、おそらく川内さんが目にとめるようなものたちは、自然とあちら側から我々の視界にはいりこんでくる。

蜘蛛の巣のはかり知れない芸術性、その糸に重たげに連なる水滴、小さな毛虫や蛇、それを興味だけで捕まえた子供のころ、ガラス越しに見ることのできる蛙の腹、子供たちのボール遊び、雪が降った日の学校の駐輪場。ちいさな子供の、限りなく柔い髪の毛と、それを撫でる光の粒。それらはぜんぶ過ぎ去るもの。

川内さんは、そういう瞬間をひたすらに切り取る。今回の展示は映像作品が多くて、「この感覚を思い出せ」という彼女からの強いメッセージを感じた。巨大なスクリーンをふたつ並べて、同時に別々の映像を流したり、足元に木漏れ日や川底を拡大して投影したりする演出は、一瞬で無機質な都心の会場にいる大人たちを「あの頃」へ誘っていたように思う。

ずっと「分かる」と思って見ていた。いつか終わるもの、すでに終わったもの、もうすぐ終わるもの。ざらざらするもの、ひんやりするもの、当たり前のようで不可思議で、不可避なもの。そういうものを見てしまう感覚、だけど見ているだけで謎は謎のままで、時間の流れは止めようがないこと。

いつか死ぬということ。



この展示を見て改めて感じたのは、実写のメッセージ性の強さだ。「コレが切ない」を一瞬で共有できるのは、絵画や文章といった他の手段ではまず成し遂げられない業だろう。

言葉は常に裏切る。自分の気持ちを100%正確に写し取ることがなどできない。写し取れたたところで、同じ感性を同じ言葉でもって切り取る人間でなければ、投げかけても受け止めきれない。そしてもちろん、この世にそんな人間はいるはずもないから、ズレにつぐズレが生じて、最後は傷つくことになる。

それに比べて写真や映像は、なんと雄弁か。具体の塊を提示することで、抽象的な感情を共有できるのだ。

川内さんの強みは、人々が見落としがちな日常を、目を背けがちな日常を、強く意識させるところにあると思う。そして川内さんの感性と、見ている人の感性が重なり合うところに、わずかな痛みが生じる。その痛みが彼女の写真の魅力なんだと思う。

だから、まことに個人的な意見ではあるが、「あめつち」とか「アイスランド」とかのロケ写には、まったく心動かされなかった。おそらく彼女はフィールドを世界に広げずとも、日常のほんの小さな点から宇宙を感じさせることのできる写真家だと思う。フィールドを広げることによって、逆にメッセージ性は薄まり、共感はなくなり、うさんくささが生じる。

それと、私は今回の展示のメインビジュアルを担っている写真はあまり好みではなかった。木漏れ日が子どもを照らす写真とか、飛行機の中から俯瞰した大地とか、酸化したリンゴの断面とかは、過剰でいやらしいとさえ思った。リンゴの写真を目にしたあとで、写真と同一のリンゴを剥いている映像が流れているのを見て、さらに興醒めしたというか、「やっぱりな」と思った。先に川内さんの脳内イメージにある「エモい図」があって、それをわざわざ再現して、写真におさめたような印象を受けた。実際の創作過程は分からないが。

でも全体的には面白かった。子どものころの視点を一瞬だけインストールされたような気がした。目を凝らせば雪の結晶は見えるんじゃないかと期待して、ジッと見つめたあの日のこと。そう、私にも無為な時はあった。当時なかったのは、それを「無為」と感じる合理的な判断だ。

会場には、彼女のこれまでのアーカイブがあって、図書館にも無かった写真集が見放題だし、ほとんどの作品は併設されたストアで購入可能。興味がある人はぜひ行ってみてはどうだろうか。

ちなみに私がいちばん驚いたのは、「Blue」っていう魚喃キリコ原作の映画の、その写真集を撮っていたのが川内倫子さんだったということだ。このビジュアルは当時とても印象的だったので、展示最後の写真集コーナーで、それが川内倫子作品だったと知って納得した。

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