雑記 生きる理由 2022/1/28

友人と話した生きる理由を語らせてほしい。

よく、オタク界隈には生きる理由に『推し』を挙げることがある(偏見)
私にも推しはいるが、生きる理由にはなれない。

なぜなら、『推し』との関係は基本的に一方向であるからだ。
もちろんライブへの参加や感想のツイート、スパチャへの反応を双方向だと感じる方もいるだろう。
だが、その根底には相手側から無条件に与えられるという前提がある。
言ってしまえば、私が相手に関与しなくても物事が進行するのだ。
これは"諦め"に繋がる。
限界が来たとき自らこの世につなぎ留めておく鎖を切ってしまえるのだ。
これは『推し』だけでなく現代のコンテンツほぼすべてに言えるだろう。

では、どのようなものが生きる理由にふさわしいか。
それはこちらの関与で対象が変化するもの。
一つ恋人だろうか。
恋という関係には自身と他者が必須であり、一方的に他者から与えられるだけでは成立しない。
このような双方向の鎖は、こちら側が切れても相手側が繋ぎとめてくれる。
例え生きることを諦めようとして鎖を切っても、また鎖を繋ぎ止めるだけの生きようと思えるだけの時間を与えてくれる。
しばしば、関係が深いことを切っても切れないなんて言うが、的を得ていると思う。

ちなみに、鎖は心の深度に応じて強くなる。
語弊を恐れず端的に言うなら信頼だろう。
もちろん友人といった鎖もあるが、相手にさらけ出せる心の深度は恋人よりも浅いだろう。
元来から人は他者が心に踏み入ることを警戒する。
自身の精神保護と他者との境界を定義するために必要だからだ。
しかし、その境界を越えて結ばれた鎖は容易に抜けない。
深く相手を信頼し理解できるもの、それは恋人だろう。

結局私も生きる理由を探している。
現時点での結論は恋人だが、ほかにもきっとあるのだろう。
別に理由なんていくつあっても困らない。
もし、また最適解と思えるものを見つけられたら語らせてほしい。

最後にこのアカウントを見つけたあなたへ
特段文章力もないわけだが、言葉を綴る場所を用意してみた。
気が向いたら日記や想いを記録していこうと思う。
後日思い返して羞恥の情に顔を歪めるだろうがもう遅い。
何かの際にまた読んでいただけるなら嬉しい限りだ。





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